10月20日、紫香邸と神戸のクラファン始まります
紫香邸は築100年へ!神戸はマフィンのお福分け便!

2015年の秋。北海道・千歳、駒里の農家のD型倉庫に、十数名がしゃがみこんでいます。足もとには、刈りとった豆の株が山になっています。みんなでさやをむいて、中から豆を取り出しているのです。いわば、脱穀です。
彼らは、東京から来たMAMEHICOのお客さんたちです。飛行機代も宿代も、ぜんぶ自分で払って、ハタケマメヒコの遠足に参加しています。
MAMEHICOは、2010年から2020年まで、北海道に広大な土地を借りて、無農薬、有機栽培で豆を育てていました。それが、ハタケマメヒコです。南十勝の大樹町で3年、千歳で6年、そして最後は月形でした。
この写真を見たとき、ワタシは不思議でなりませんでした。豆がほしいだけなら、買ったほうがきっと安くすみます。店にとっても、お客さんにとっても、こんなに非効率なやり方はありません。それなのに、10年も続いたのです。彼らはなぜ、そこまでして畑に来たのでしょう。
ハタケマメヒコは、コロナとともに終わってしまいました。あれは、いったい何だったのか。ワタシはそれが知りたくて、残された冊子や写真をめくり、店主の井川啓央と、畑に通ったヒトたちに、話を聞いてみることにしました。

——MAMEHICOって、もう21年、ずっと豆を煮てますよね。看板の黒豆寒天も、開店のころからのメニューで。
「そうだね。2005年に三軒茶屋で始めて、いまは銀座、神戸の御影、群馬の桐生にも店がある。珈琲とお菓子を出して、芝居や音楽会、学びの会もやって、そのあいだもずっと豆を煮てる。黒豆寒天は、うちでも人気のあるメニューのひとつ。ただ、吸水に一日、味入れに二、三日。手間はかかるよね。毎日、各店の厨房で、スタッフがイチから煮てる。うちに来るまで豆なんか煮たこともない子ばかりなんだけど、豆を煮ること自体は、そんなに難しくない。時間がかかるってだけで。
一年もいれば、勘所がわかってくる。黒豆の甘煮を作ったり、あんこを炊いたり、ときには味噌も作ったり。楽しみながらやってる感じかな」
——今日も厨房で、黒豆が煮えてました。火を入れたり、冷ましたりをくり返して。あれを、豆を煮たこともなかった子たちが。
「いまのお客さんは、乾物の豆を戻して煮ることになじみがないでしょ。だから『私が炊いたんです』なんて若い女の子が言うと、受けるわけ。『あら、偉いわね』って(笑)。
スタッフも、そういうのが励みになるしね。『東京の真ん中で毎日豆を煮てるなんてすごいわね』って、会話が弾む。正直、そういうことも計算して店を始めた」
——計算ずくだったんですか?(笑)そもそも、なぜ豆だったんでしょう。
「店を始める前は、テレビの制作会社をやりながら、料理教室を開いてて。その料理教室であるとき、みんな料理は作るけど、豆を煮たことはないってはなしになって。母親が煮てる姿も見たことがない、と。
みんながみんな口をそろえて、はっきり言って面倒くさいって言う。そんなに面倒くさいのかと思って自分で煮てみたら、そんなに面倒じゃなかったんだよね。戻すのに時間がかかるだけ。
だったら、その時間を店で肩代わりしたら、みんな喜ぶんじゃないかなと。豆は名前も面白いし、フォルムもきれいだし。なにより、誰もやってなかったから」
——でも、看板には「豆」の字がないんですよね。豆の店なのに。
「オープンの前に、豆の料理やデザートを試作してみたら、インパクトに欠けるんだよね。非常に滋味なんだけど、地味。豆を家で食べたことのない若いヒトに、豆を食べてもらうのは無理だなと思って。
『豆』って漢字が入り口にあったら、豆のイメージに引っ張られて、間口が狭まっちゃうでしょ。ボクらにとって『豆』は哲学だけど、売りではない。それで『Mame-Hico』と、豆の字を使わないことにした。マメとコーヒーで、コーヒーを逆さに読んでヒコ。とくに深い意味はないです(笑)。
お客さんには、雰囲気のいい店だなとか、駅前で便利だわねとか、なんでもいいから使ってもらって。いつの間にか豆を食べてもらおう、っていう作戦」
——売りじゃなくて、哲学。その哲学って、どういうことですか?
「カフェは自由なところがいい。ただ、その分、核になるものがないと、なんだかわからない店になっちゃう。その核が、豆。
豆から感じるのは、温故知新とか、手間ひまを惜しまないこととか、フェイクじゃない本物とか、自然や季節を大切にすることとか。まめまめしく働く、なんかもあるね。
そういう豆の哲学を、インテリアにも、接客にも、音楽にも、植栽にも通そうと思って、続けてきたわけね」
——開店の準備のころ、豆の産地を歩いてますよね。豆は、どこから仕入れるつもりだったんですか?
「開店の準備中、自分たちで豆を炊いてもなかなかうまくいかなくて。炊きあがった豆を定期的に仕入れられないかと、十勝に通ったんだよ。豆どころといえば十勝だからね。ところが散々で、豆は足が早いから、豆のカフェなんてやめときなさいって、どこ行っても相手にされなかった。
ただ、通ううちにね、開拓時代のはなしや、不作のときに豆で生き延びたはなしをたくさん聞いて。大豆ひとつとっても、黒豆や茶豆、鞍掛豆なんてのもあること。小豆はショウズと呼ばれて、かつては赤いダイヤと言われたこと。インゲンは、ツルのあるものとないもので、作り方も産地も分かれること。
知らなかった豆のことを色々と教えてもらってそれは、とても楽しかったのね」
——相手にされなかったのに、楽しかったと(笑)。でも、炊きあがった豆を仕入れる道はなかったわけですよね。
「なかった。それで、自分たちで炊くと決めて、試行錯誤を重ねて。いまじゃスタッフが当たり前に炊いてるけど、はじめは、こんなことできるのかなって、ずいぶん悩んだよ」
——そのあと、在来種の豆に切り替えますよね。何があったんですか?
「開店して三、四年たったころかな。北見のあたりで在来種の豆を作ってるヒトたちの雑誌の記事が目に留まった。それまで使ってたのが、十勝のF1の豆だったことも、そのとき知ったんだよ。
記事によれば在来種のルーツは、開拓時代にさかのぼるんだ、と。入植してきたヒトが故郷に想いを寄せて、ポケットに故郷の豆をしのばせて開拓地に来た。戦後、F1全盛になっても、味のいい豆たちは、女性たちが『美味しいから自家用に』と庭先で大事に育てて、いまもわずかに残ってるんだ、と。そのストーリーに惹かれたんだよね。
それでさっそく取り寄せて炊いてみたら、柔らかくて、すぐ煮えて、味もいい。遠軽の長谷川商店や、豆農家の服部さんとの出会いは、そこから」
——長谷川商店って、どんな店なんですか?
「オホーツクの遠軽町にある、べにや長谷川商店ていう昭和元年からの雑穀商でね。娘の清美さんが子どものころから、農家のおかあさんが『余ったから』って在来種を持ってきて、それを父さんやおじいさんが買い受けてたらしい。遠軽の在来種は20種類くらいあって、種を買わずに、自分で育てた豆から種をとって、何代も受け継いできた豆。そういうことを遠軽行くと教えてくれる。
それから、何度も何度も通って。長谷川のとうさんもかあさんも、ボクを面白がってくれて。豆とはなにか、商売とはなにかも教わった。でも、やっぱり衝撃だったのは、馬と暮らしてる豆農家、服部さんとの出会いだね」
——その服部さんとは、どうやって会ったんですか?
「街から外れた集落に面白いとうさんがいるからって、長谷川さんに連れてってもらったことが始まり。服部さんは大正13年の生まれ。その6年前に、服部家は遠軽の瀬戸瀬に入って、森を馬で開いたんだと。服部さんもずっと馬と暮らして、馬の堆肥を使って、昔と変わらないやり方で豆を作ってきた。ボクが会った当時は85歳で、だけど現役で、奥さんのツルさんとふたりで、腰をかがめて手で刈って、におに積んで、自然に乾かしてた。
なんていうのかな、人間の格が違うっていうのかな。大変なことしてるのにユーモアがあって、手のひらなんか見せてもらったら」
——2013年の写真でも、ビニールハウスで乾いたさやを指で割って、豆を手のひらに受けてますね。
「そう。人間てこんな風になれるんだって。圧倒的な存在感なんだよ。いまでも眼裏に焼き付いてる」
——何を教わったんですか?
「たとえば、農家は何年経っても一年生だぞな、って言ったりする。60年やっててもですか?って聞いたら、今年は豊作だ、よかったよかった、が続けば卒業なんだろうけども、やっぱり翌年は、ハハハって。また一年生に戻ってるんだぞよって言うんだよね。
要は一度として同じ気候、同じ条件はないから奢るなよってことだよ。
——含蓄ありますね。
「そう、いちいち含蓄あるんだよ」
——完全な有機栽培でやってらしたんですよね。
「有機栽培は大変ですかって聞いたら、自分の食べる分だけだったら、なんの問題もない。けど、みんなに食べてもらおうと大量に作るっちゅーことになると、大変なことがあるわけだぞよ、って」
——量を作ることが難しいということですね。
「大量生産、消費時代への警鐘だよね。
それに、農家というのは博打だぞ、っていうこともしょっちゅう言ってたな。儲けた、よかった、っちゅーこともあるけど、儲けられなくてみじめなこともある。最後の最後、刈り取るまでわからんのよ、と」
——60年やっても一年生で、しかも博打(笑)。
「とにかく、たかが農家、たかが己一人という孤高の意識があった。見た目は好々爺だけど、まったく人間の厚みが違う」
——ハタケを始めたのは、豆が入らなくなったことが直接のきっかけだったそうですね。
「そう。ある年、遠軽の豆が悪天候で不作になって、うちに豆が入ってこなくなった。このままじゃ在来種を手に入れるのはますます難しくなるよ、ってはなしがあって。
たしかに、長谷川さんを通して知り合う農家の方々は、大層なご高齢。豆の生産は採算に乗らないからか、若い農家が始めるのは難しいよね。このままいくと、近いうちにいい豆が手に入らなくなるだろう、と」
——それが2009年。
「北海道は6月から雨が続いて、百年に一度の凶作って言われた。2000坪の畑でとれた豆が、ひとにぎりだけ、なんて品種もあったらしい。それで12月13日に、渋谷の店で『緊急!!豆サミット』を開いた。良い機会だと思ったね」
——どんな顔ぶれだったんですか?
「東京からは、ブランディングプロデューサーと、ヒュッゲの国デンマーク大使館の職員。家具屋さん、能楽師と、多様なヒトたち。北海道からは、豆屋の長谷川さん、農家の服部さん」
——その対比が、すごいですね。
「そうだね。服部さんはご夫婦で来てくれて、85歳。べにや長谷川商店の社長の長谷川清繁さんが75歳。でもね、実際は全く話が噛み合わなかった。
噛み合わないことを示したかったからいんだけど」
——どういうことですか?
「誰だって、東京一極集中がだめだと憂いてるでしょ。東京の消費者も、地方の生産者も。
このままじゃダメだって結論は同じになる。
だけど、決め手になるアイディアがあるかって言ったら、なかなかない。
いまのままでは小さな農家は生き残れない、国の農業政策が悪い、みたいなはなしにたとえばなる」
なりますね。
「それはそうなんだろうけど。テレビの討論番組で言ってるようなことを小さなカフェで言っても、なんの意味もないわけだから。
対局の話ししてもなんの解決策なんか出ないんだよ。
東京のヒトはみんな他人事だから。
ただ、店のスタッフが『豊かさってなんだとおもいますか?』って服部さんに聞いたんだよ。すると『親の愛です。親への感謝の気持ちを忘れないでください』って」
——愛、ですか?
「それで、会はおしまい。やっぱり服部さんみたいなヒトのほうが、かっこいいと言うか。サミットにはNHKのヒトも来てたりして。直接は関係ないけど。のちにNHKで服部さんのドキュメンタリーができて賞まで取ったんだよ」
——その服部さんに憧れて、豆づくりを始めたんですか?
「見てるだけじゃダメだなと、やっぱりこのサミットやってみて思って。服部さんも、井川さんも豆を作りなさいって言われて。とにかくやってみないと話し聞いただけじゃわからんと。それはサミットですごく思ったのね」
——そうですよね。
「なるべく服部さんと対等に話したいから、やってみたっていうのは今思えばあると思う」
——すごいヒトなんですね。
「ああ、すごいヒト。なにごとも信念を持ってやらないとイカン。採れても採れなくてもいい、なんて気持ちじゃダメだ。儲けるぞって信念を持って、とにかく最後までがんばってみろ。そうすると、ちゃんと自分の性格というものが豆に表れるわけだな、とか。もう言うことがすべてすごい」

——それで、MAMEHICOで何ができると考えたんですか?
「養老孟司さんの本だったか、インタビュー記事だったか忘れたけど、こういうことが書いてあった。
東京と地方の労働者を流動化させないと、地方は年寄りばっかりになっちゃうし、東京はあくせく働いて疲れちゃう。行ったり来たりするのが、これからはいいんじゃないかと。
現実的な提案だな、って気がして。これならボクたちでもできそうだな、と。東京のスタッフが、5月から11月は北海道に住んで畑仕事をして、冬になったら東京に戻って、またカフェで働く。そんなハタケマメヒコを始めてみようと」
——養老さんの言う「参勤交代」ですね。なかなかの挑戦だと思いますが。とくに北海道ですしね。
「そう。遠いことは良くないなと。それで桐生の紫香邸の発想になる。桐生も遠いけどね(笑)。
とにかく食べ物を作るってどういうことか、自分でやってみないとわかんないと思って。そしたら、具体的なはなしが出てきたんだよ」
2010年、南十勝の原野。道具も、畑の知識も、ほとんどないところからの始まりでした。
──次頁「大樹町」へ
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