10月20日、紫香邸と神戸のクラファン始まります
紫香邸は築100年へ!神戸はマフィンのお福分け便!

——最初のハタケマメヒコは、南十勝の大樹町ですよね。今はホリエモンのロケットで有名になった。その経緯を教えてください。
「大樹町に、開店以来、乾物の豆を送ってくれてたスーパーマーケットの社長さんがいてね。店を始めるときも、始めてからも、北海道から豆を取り引きするうえでは、本当に力になってくれた恩人で。
その方にサミットのはなしをして、なんかそんな場所ないかとはなしていたら、畑に使えそうな所を一緒に見て回ることになって、たまたま1ヘクタールくらいの土地を借りられるさんだんになったんだよ」
——それはラッキーでしたね。
「いや、まあ当時はもっと甘く考えていたっていうか。だって土地はいっぱいあるわけだから、ひょいひょいとみんな貸してくれたり買えたりすると思ってた。
ボクたちは志もあるし、使い道もある。けど農地法というのがあったりして、畑を探すことがこんなに難しいのかと思ったんだよ」
——その土地を初めて見たとき、どうでしたか?
「えっ、ここでって感じ。どうみても荒れ地なんだよ。背丈と同じくらいの雑草が生えてるんだから。かつては牧草地として使ってたってことだったけど、ここですか?っていう。
でも機械入れればすぐきれいになるからってな感じで。
やってみたいという思いはあったし、開墾みたいな気持ちから始めなくちゃいけない土地だったけど、それも楽しそうだなと。
贅沢は言ってられないでしょ。貸してくれるだけありがたいと思ってね。まぁ、そこがボクの甘さなんだけど(笑)。豆サミットのあとにポッと出たはなしだから、とにかく実行に移そうが強かった。
店で出す豆のいくらかでも、自分たちで作ってみれたらいいやっていうね」
——そこに、スタッフが常駐するんですよね。
「そう、東京のスタッフがふたり、移り住むことになった。5月から11月までは北海道でハタケマメヒコをやって、冬は東京に戻って店に立つ。前に話した参勤交代を実践しようと」
——志願者はいたんですか?
「それはいたよ。北海道でハタケ暮らし。実態をよくわかってないから、楽しそうってなるじゃない」
——でも開墾からですよね。最初は、どこから手を付けたんですか?
「牧草の土地を、プラウ(土を掘り起こす農具)で上下に起こして、それから何度かトラクター入れて整地していく。
たしかにあっという間にきれいになったよ。
トラクターというのはすごいなと。
それを測量して、区画を整理していく。
それだけでも一苦労。とにかく広いからね」
——1ヘクタールというと、100m四方ですよね。広いですよ。
「いや、前提として、北海道の十勝で1ヘクタールっていうと、農地としてはそれほど広い土地じゃないんだよ。
トラクターでバーッと畝を切って、単品目の種をバーッとまいて、農薬して、除草して、収穫する。ひとりで何十ヘクタールとやるのが十勝型の農業だから」
——それにしたって、広いですよ。
「手でやるには5反くらいまでというのがあって、ふたりで専属なら1町、1ヘクタールはやってやれないことはない。
それに、ボクたちの目的は、まず豆を作ってることを情報として発信しよう、っていうのが最初にあったわけで、実際に豆ができるとも思わなかったんだよ」
——ハタケマメヒコっていうのは情報発信プロジェクトのつもりだったということですね。
「そう。だから、在来種の豆を、無農薬、無肥料で、除草剤も使わないで、まず作ってみようと思った。
それも多品目試してみたかった。
その成長過程なり、苦労を発信すればいいから、楽しくやろうと。
それで区画を割って、メジャーで線を引きながら、あすこにはコレを植えよう、ココにはあれをと。愉しみながらやってみようと始めたわけだけど」
——そうもいかなかった?
「そうだね。そうもいかなかったなー」

——道具が少なくても、豆ならやれると考えてたと聞きました。
「服部さんたちの話を聞いて、豆なら、やってやれないことはないなと思った。栽培にそんなに手間がかからないし、根粒菌(豆の根に住んで、養分を作る菌)があるから肥料もあまり要らない。限りなく原始的なやり方でも育つタフさが、豆にはあるんだよ」
——開拓時代に、豆が支えたというのもそのとおりですね。
「で、なにより、収穫したあとに保存が効くのが一番のポイントだった」
——といいますと?
「たとえば苺を栽培するとするね。苺はカフェの定番だし、人気もある。だけど、収穫したらすぐ食べなくちゃならない」
——そうですね。
「ボクたちは東京で消費するわけだから、そういう意味で生鮮は難しんだよ。採れてから消費までの日数に余裕がないと」
——なるほど牛乳はダメだけど、チーズならいい。
「そう。豆は乾物だからできるな、と。採れてから消費するまでに1年後でもいいわけだから。
そういう意味で豆を育てることについてはあまり心配していなかった」
——豆は、手押しの播種機で蒔いたんですよね。遠軽の服部さんと同じものだそうで。
「そう、服部さんの所で使ってるのと同じ、コロコロ転がしながら蒔く、昔ながらの手押しの播種機で蒔いた。押しながら畝を歩くと、同じ間隔で豆が落ちる。その上に、足で土をかけていくっていう原始的なもの。
なによりボクの先生は服部さんだったから。やらずにつべこべ言うなよと。まずはやってみてから、って感じだから。とにかく見様見真似でやってみた」
——ほかの道具は、どうしたんですか?
「いくら原始的にやるって言っても、北海道の1ヘクタールをやるには、大型のトラクターがないと実際はできない。アタッチメントもそれぞれ作業によって違う。それをひとつ借りるにしても、なかなかね。貸してくれるヒトはいたとしても、トラックで取りに来いとかね。
タダでいいよって言ったとしても、ほんとにタダでいいのかお金を払うとして、いくら払えばいいのかとかわかんない。
スタッフは大樹に居るけど、ボクがいないと話が進まないことばかりだから。ボクが来られる時期に合わせてやろうとすると天気が良くないとかね。
大樹町はやってみてわかったけど、天候が悪いんだよ。
午後になるとすぐガスが掛かってしまう。畑作に向いてないんだな。
融通はスーパーの社長さんがよく効かせてやってくれた。
スーパーの社長さんはあんまりお金かけずにやったほうがいいと、最初から揃えようとすると、お金がかかりすぎるからと」
——具体的なアドバイスですね。
「経営者同士だからね。お金についてはそうだなと。
でもそもそも借りてる土地だから、どこまでやっていいのか、貸主さんとどう付き合っていくかと、よくその社長さんと、夜な夜な作戦会議をしてたね。
豆の栽培より、よそ者がこの土地でどこまでのびのびやれるか、東京のスタッフのケア、そのことの方がずっと気がかりだった」

——ハタケの脇には、赤い屋根の小屋が建っていますね。あの小屋は建てたんですか?(笑)
「二年目に建てた。ハタケマメヒコをやるからには、きれいにやりたかった。服部さんのところも、きれいというのとは違って粗野だったから。
みんなに来てもらうためには、素敵な所にしなくちゃいけない、と思ったんだよ。
小屋は自分で設計して、北海道の開拓の象徴であるマンサード屋根にしたの。途中で折れた形の屋根で、北海道の牛舎や納屋でよく見かけるやつにね。
地元の大工さんとも知り合って意気投合して。ボクは大工さんとはものづくり精神で割合意気投合しやすいんだよ。
なるべく開拓時代に近い木造の昔ながらの建て方をしてもらった。なるべく節約しながらね」
——実際にやってみてハタケはどうでしたか?
「きれいに整地されたと思っていたけど、なんのことはない天地がひっくり返っただけだからね。牧草みたいな雑草があっという間に盛り返してきて、雑草なんか全く追いつかなかった。
ろくに豆も作れなかったよ。雑草が強すぎて。
除草剤を使わないで、スタッフがホーっていう長い柄の鎌で畝の間の草を取るんだけど、真夏の太陽の下じゃ、刈ったそばから、すぐにぼうぼう。まるでゾンビ。小豆なんか、見えなくなっちゃうんだよ」
——ゾンビですか?(笑)
この雑草がきれいになるのには、数年かかるなと地元のヒトに言われた。甘く見てたんだよ。とにかく大樹は失敗に次ぐ失敗。
——鹿も出たんでしょう。
「鹿も入ってきて、豆を食べていくんだよ。小豆の新芽とかね。収穫の直前に、ほとんど鹿に食べられたこともあった。一体何のためにこんなことを、こんなとこでやってるんだろうって、せつなかった」
——服部さんには、相談したんですか?
「したよ。鹿は北海道中で増えすぎて問題になってる。狼がいなくなったからという話もあるね。
服部さんも、相当な被害にあってるから、夜中じゅうラジオをつけっぱなしにしてみたらどうかと言われて。
——やってみたんですか?
「やったけど、ダメだった。それで服部さんに、どうもラジオは効かないですって言ったら、『あいつらすぐ慣れるもんね』って笑ってた。電牧とか意味ありますかって聞いたら、鹿はバカじゃないからな、飛び越してくる。オレらのほうがバカだから仕方ないな、って」
——答えになってない答えですね(笑)
「こうなったら、こうすればいんですか?という答えを聞きに行ってもダメだって教えなんだよ」
——有機農法をよく思わないヒトもいるそうですね。
「勇気ある農業、勇気農業だね、とか言われた。ボクたちがやってることを冷やかしに来るヒトは結構いて。たとえば農薬は良くないって言うと、そんなに悪いものなら国が認可してるわけがないだろ、と笑われたりね。
除草剤を撒かないとダメだ、農薬を使え、肥料を入れろ、ってさんざん言われたよ。
雑草で困ってる時も、一回全部除草剤で殺してからハタケにするんだよ、それじゃなきゃできないよって言われて」
——やったんですか?
「やらないよ。まぁ、こっちが遊び半分でやってること、足元見られて、からかわれてたってことよ」
——そこまで言われても、使わなかったのはなぜですか?
「東京ではさ、オーガニックって流行ってた頃だったから、それに固執したというのもあるね。
プロの農家と同じやり方をするなら、市場で豆を買うのが一番コストがかからないわけだから。流行ってるオーガニックなるものを、MAMEHICOもやってみたというところだ。
服部さんにも農薬は使ってもいいですかって聞いてみたこともあるよ。使ってもいいけども、体にはよくない、1回や2回はなんともないだろうけど、ずっと使ってれば体の中に蓄積があるから、って」
——そこでも量なんですね。
「そう、服部さんは、通常の農業も否定しない。基本的にやりすぎは良くないというスタンスなんだよ。だからボクは尊敬してたの。だから馬とトラクターの両方を使いこなしてた。馬で便利なこととトラクターで便利なことは違うと」
——リアリストなんですね。
「そうメルヘンじゃない。そもそもこういうところから、東京の消費者と、北海道の生産者の間に大きな意識の差があると思ったんだよ。
有機栽培とか言ってるが、あんなのみんな嘘だから、みたいなこという農家もいるんだよ。あんなことできっこないからと。実際に十勝で手広く有機農法をやってる農家さんもいて。
会って話を聞いてみると、そもそもオーガニックでも育つ品種を探すことからやらないと、F1品種のじゃがいもを、頑張ったところでオーガニックで作るのは無理だよと言われたこともあた」
——どんなものにもコツがあるんですね。
「そうだね。とにかく色んな話が錯綜するから。メンタルが強くないとやれない。帰りの飛行機の中ではいつも、なんでこんなことやってるんだろうと思ってたよ」
——近所の目は、赤い屋根の小屋にも向いたそうですね。
「最初は土地の貸主が、ユンボ(ショベルカー)を貸してくれたり協力的だった。貸主の同級生が大工さんで、小屋を建てることに、どんどん熱心だったりしてね。ところが、途中から貸主の態度が変わっちゃったんだよね。
たとえば、農地に勝手にあんな建物を建てて良いのか。農業の資格がない者が、農業のようなことをして良いのか。屋根が赤すぎるのは景観を損ねてるんじゃないか。みたいな」
——どうして、変わったんでしょう。
「土地と施設丸ごとうん千万で買わないかと持ちかけられたこともあるよ。もちろん断ったよ。
やっぱり利害が一致しなかったんだろうな。
最初は歓迎でも、途中から雲行きが怪しくなるはなしって大概そうだから」
——利害関係があれば続くと。
「それだけじゃないだろうけど。まぁボクが生意気だったんだとは思うよ。困ってます、とか、助けてくださいとか、下手には一回も出なかったからね。
勝手に自分で決めて、周り巻き込んで色々と進めたことが癪に障ったのかもしれない。
互いに感情だから、なにか一つコレってことじゃないよ」
——土地を一緒に探してくれた社長さんは、どうしていましたか?
「やっぱり地元のヒトだから、波風立たず、うまく立ち振る舞おうと。要は自分たちが正義だと思うなよ、ってこと。スローガンじゃヒトは動かない。互いの利害のなかでやってるわけだから、田舎だからうまくやろうと」
——はたから見ると、準備が甘かったようにも見えるんですけどね。
「そりゃそうだよ。準備は甘かったのはそうだと思うよ。わっと思い立って始めたからね。
でも、あのときの若いボクらに、もっと入念な準備はできたかっていうと、できなかったと思う。だから必然的に、ああなって当然だったわけだ」
——長雨と台風の夏があったと聞きました。
「ある夏、北海道に台風が次々と来てね。北海道の農作物は、大きな被害を受けた。こんなことは100年に一度だって、農家のヒトたちはみんな困り果ててた。畑はぬかるんで、大きく茂った大豆はバタバタと倒れちゃって。でもね、うちのハタケは無事だったんだよ」
——どうしてですか?
「雑草とクンズほぐれつ共存してたからだと思う。
根を、雑草に負けじと、地中深くに張ってたからね。よその大豆に比べたら背丈も低いし、ぱっと見は貧弱なんだけど」
——近所で笑われた、あのハタケの大豆が残ったわけですね。それを見て、何を考えましたか?
「植物は、当たり前に起こるストレスにちゃんと対処する根性を、自然と持ってるんだなと思った。
若いころは、自分が活躍できないのは環境が悪いせいだって、思うところがあるじゃない?
でも、長くつづけていくためには、自分の場所に根を張るしかないんだと、ハタケマメヒコをやってボク自身、大きく考えが変わった。台風に倒れないうちの豆の根性を見て、ボクは大いに学んだんだ」

——ハタケマメヒコは情報発信のプロジェクトでした。大樹町での数々の失敗は東京のお客さんに伝わりましたか?
「数々の失敗を、店を通して伝えようとはしてみた。でも世間は、それほどボクらのハタケに関心がなかった」
——もっとあると思ってたんですか?
「意外だったね。もっとリアクションがあるかと思ってた。東京のカフェが、北海道に突如、広いハタケを借りて、原野に近い土地で大豆を育てて、店で使ってるんだから。もっと世間はびっくりしてもいいと思ったんだけど、なんのニュースにもならなかった」
——世界びっくりニュースなのにね(笑)。何が、足りなかったんでしょう。
「周囲にはメディアをうまく使ってやってるヒトたちもいた。けど当時のボクたちは、宣伝だの広報だのと用意する手筈もなかったし、発信する余力もまったくなかった。
そもそも、ハタケマメヒコをやってるだけでへとへとだから、写真だので伝える気力がないんだよ。
伝えたいことは悪口になったりぐちになっちゃうし。
のんびりした暮らし、自然な生活というのが流行ってた頃だったし、農業もファッションのように取り上げるメディアはたくさんあった。でも振り返ってみれば、あくまで一過性のブームだったなと思う。
伝えることの難しさをいまもって感じてるよね」
——行き詰まりを感じていましたか?
「大樹町で3年目を終えたときに、もうやめよう、と思った。いろんなところの意識の差を埋める手立てがボクにはないし、スタッフも投げやりだった。これ以上続けてもどうにもならん。大樹町のハタケマメヒコは、撤退するとホウボウに言って歩いた」
——鹿と雑草、近所の目、そして東京にも届かない。よそ者がやってきて、借りた土地で畑をやる、その形ではそもそもうまくいかなかったんだと思うんですけど。
「たしかに。借りた土地というのは、弱いよね。出て行けと言われたらそれまでだもの。
次やるときは農地ごと買いたいと思ってる。またやりたいと思ってるよ。
でもね、やっぱり、やってみなきゃ、わかんないね」
——大樹でやめようとはならなかったんですか?
「ハタケマメヒコは、志半ばだったから続けたかった。そんなとき、たまたま千歳に、同じ広さのハタケがあるってはなしが、ヒトづてに耳に入ったんだよ」


千歳空港から、車で15分。有機で畑をやってきた年配の夫婦が、だれかやるヒトがいるなら貸してもいいと言っていました。
──次頁「千歳、自分たちでやる」へ
コメント 0
コメントを投稿するには ログイン してください。