10月20日、紫香邸と神戸のクラファン始まります
紫香邸は築100年へ!神戸はマフィンのお福分け便!

——駒里のハタケは雑木林に囲まれていて、冬の終わりには、まだ何も植わっていないハタケに白鳥がいました。千歳の話は、どこから来たんですか?
「大樹町のハタケマメヒコじゃ限界だと思ってやめますと宣言してたとき、千歳に有機農法でやってる老夫婦のハタケがあるって話を聞いて。引き継いでやるヒトがいたら貸してもいいって話で、ボクたちからすればまさに渡りに船。千歳空港から車で15分だから、大樹町よりずっと便利。大樹町は、帯広空港から車で1時間だったからね」
——大樹町のあとですから、貸主さんのことは気になったでしょう。
「そりゃそうですよ。人間関係は、かなり気にした。でもね、どこまで疑っても、始めてみなきゃわかんない。
いい御夫婦だったしね。それで交渉して、2013年から駒里。4年目のハタケマメヒコを千歳で始めることにしたの。
ハタケは、一軒家がついてきて、家の前と、かまぼこ形のD型倉庫、トラクターもあるところ。ご夫婦のご主人を『とうさん』、奥さんは『かあさん』って呼んで、この家に東京のスタッフが入れかわり住みこんで、豆を育てることにしたわけ」

——2015年の写真では、ブルーシートの上に、かぼちゃがずらりと並んでますね。大樹町とくらべて、どうでしたか?
「劇的に変わったね。刈り入れ前に豆を鹿に食べられたり、雑草に埋もれてた大樹と千歳では雲泥の差だった。
千歳では、店では使いきれないほどの量の農産物がとれたんだから」
——どのくらい、とれたんですか?
「小豆は粒の大きい大納言。それに黒豆、色のきれいな紫花豆。前川金時、貝豆、黒千石っていう在来種も作った。全部合わせて、1トン近く。東京の3店舗で使うには、充分すぎる量だったよ」
——すごいですね。
「服部さんの言葉じゃないけど、儲けるんだと決めることはとても大切だ。大樹ではあわよくばできればいいやという気持ちでやってたけど、千歳では今年一反あたりどれだけ作るかと決めて作る。それで店で使って余ったら農協に売りに行くんだ、とうさんはそういう感じだったから。ああ、プロってこういうことかと」
——変わったのは、ハタケだけですか?
「ハタケのスタッフも、どんな小さなことでもSNSに書いて、伝えるようになってくれた」
——2014年、二年目のの夏の日記が残っていますね。
2014年7月13日(日)
トウモロコシが小さく実をつけました。白い髭を食べてみると甘々。無農薬で作っているので髭も皮も安心して食べられます。
2014年7月16日(水)
花豆は大きく天に届く勢いです。今年は白花豆を作らず紫花豆だけ作ったので、赤い花で一面です。赤い花、緑の葉、白い雲。イタリアの国旗みたいで嬉しいです。
2014年7月24日(木)
カボチャはあまり手がかからず、どんどん大きくなります。ただ、一株からどんどんとツルが出てしまうので、本家だけを残して、分家は間引かなくてはいけません。それがやれてません。
2014年8月5日(火)
カボチャが見事復活。雨が降るたび、よみがえる生命力の強さを見せつけられました。畑いっぱいに黄色の花もつけました。
2014年8月8日(金)
カボチャの収穫を始めました。お店では秋メニューでプリンになる予定です。収穫してからひと月近く、乾燥させ甘さを引き出します。これを風乾と言います。
2014年9月11日(木)
今朝は農協無線放送の大雨特別警報により目が覚めました。大音量でびっくり。朝からずっと雨と雷が続いてます。(中略)お昼前には雨があがり、晴天が広がりました。
(中略)ここでの暮らしは東京の生活では忘れてしまっていることを思い出させてもらえる気がします。
——明るい日記のなかに、「それがやれてません」っていう一行がありますね。量が取れるということは、そのぶん手間も増える。
「いちばん手間がかかるのは、花豆や貝豆。つるが伸びる豆だから、支柱を立てて巻きつかせるんだけど、その支柱を立てるのが面倒。支柱は3本ずつまとめて、ゴムかヒモで留める。
支柱はどれも、ヒトの手でやるしかない。
十勝の大型農業ではでは、面倒だから支柱を使って豆を育てたりしないんだよ」
——支柱を立てるというのは大変なんですね。
「支柱も一本いくらとお金だしね。3000本は持ってたんだけど、毎年折れたりして減っていく。
だから前川金時は、支柱を立てずに育ててみた。雨が降るとやっぱり倒れて、とれる量が減るんだけどね」
——支柱を立てると倒れないんですか?
「そう。千歳に来て、とうさんの指導が細かったから、野菜でもなんでも、作るとなるなら、きちんとまめに見ないとダメなんだとよくわかった。
紫香邸で小さな畑をやってるけど、全くうまくいかないのは、マメさがないらなんだよ。ほんとに、マメに観察して、然るべきところに手をかける。そういう意味で千歳のとうさんは、そういうことが徹底してた。勉強になったよ」
——最初から、住みこみのスタッフがいたんですよね。
「ハタケに住みこみたいって手を挙げたスタッフが、東京にいてね。そのひとりが駒里に住みこんだ。でもみんな長続きしない。
とうさんは、トラクターでハタケをならして、乗り方を教えて、種まきの日には畝を切ってくれる。でも、スタッフは毎年、新しいヒトだよ。
——それは教える方も大変ですね。
「そう思うよ。でも気がかりなんだろうね」
——また、教えたらできるというものでもないでしょう?
「そうだね。言われたとおりにやれといわれても、できない。
5月の終わり、トウモロコシの種をまいたときは、種に水をやらないまま、上からビニールをかけちゃった。ビニールの下には、雨も入らないでしょ。とうさんに言われて、ビニールをはがして、種をまいた穴の一つひとつに水をかけて、ビニールをかけ直した。
6月の末には、黒大豆のハタケが雑草だらけ。スタッフは朝6時前から夜7時半過ぎまで、一日じゅう草をとった。その日も、とうさんに言われてね。豆をまいて数日たったら、こまざらいという鉄の熊手で、畑の土をならしておく。そうすれば、こんなに草は豆より大きくならなかったはずだ。サボっていた証拠だ、ってとうさんが怒って」
——その日の日記が残っています。
2015年6月25日(木)
今日はハタケから一歩も外に出ず、朝6時前から、途中休憩を挟み、何も見えなくなる19時半過ぎまで、黙々と〈黒大豆エリア〉の草取りに取り組みました。
毎日雑草に弄ばれている感じで、とても悔しいです。
——東京の井川さんにも、とうさんから電話がかかってきたそうですね。
「『いまいるスタッフはだらしない』って、怒って電話をかけてくる。スタッフのほうは、すっかりしょげちゃって」
——スタッフの資質も問われますね。
「一人でやってるから、すべてうまくいかないことはダイレクトに住み込みスタッフの責任になっちゃう。それでボクはかばうでしょ。するとボクには『そもそも、とうさんが何を言っているのか、意味がわからない』って住み込みスタッフは言うわけ。実際、そういうところあるから、前提になる言語が違いすぎて、そりゃうまくいかないよなと。けどとうさんの言ってることは至極もっともで、ボクたちのことを思って指摘してくれてるわけだから」
——とうさんのプレッシャーも容赦ないし、自然も容赦ない。日記の言葉も、だんだん重くなっていきますね。
2015年6月26日(金)
遂に、家の前のハタケにまで鹿が攻め込んで来ました。
2015年8月9日(日)
毎日朝から晩までもっぱら『ドウガネブイブイ』と『テントウムシダマシ』の駆除に追われています。
——千歳でも、大樹と同じようなことが起きていますね。
「とうさんも、東京のスタッフも、自分が正義だと思ってるから。
スタッフには、実際だらしないところがあった。甘いというのかな。
天気が悪かっただの、ブログ書いてただの、いまやろうとしてたとこだの、そんな言い訳は、植物や自然には通用しない。それを承知でやりますって言ったんだからね、文句言うならそもそも志願しなきゃいい。
一方、とうさんの言うことも、実際、ボクたちの背景を待つ宅理解していないから。
東京と地方でいったり来たりという参勤交代は、コミュニケーション不全という問題に直面するんだよ」

——ハタケをやっていたころって、渋谷の店も揺れていたんですよね。
「そう。まず、パートⅢの店でとんかつ屋を始めたら、任せてたおいちゃんが失踪しちゃった(笑)。しかたなく、ボクが職人に扮して揚げ場に立った。そのあと、パートⅢの店をリニューアルした。そしたら、すぐに再開発で立ち退きになって、店を閉めることになって。次は、宇田川町の店のリニューアル。もう激動で、当時はほんとクタクタだった」
——正直、ハタケどころじゃなかったんじゃないですか?
「そりゃそうだよ。けどやり始めた以上やらなくちゃいけない。
それがMAMEHICOの急所なんだよね。結局、ぜんぶボクがやらないと回らなくなっちゃう。
言い出しっぺの責任があるから、やり始めたことは必ず最後までやり通そうと思ってる。
でも始めたばかりのことは、いつも誰かに任せられるわけじゃない。いろんな事が同時に起きる。するとボクが回らなくなってくる。
だれかスタッフに任せても、おんなじような問題が必ず起こる。それで、信頼がある家族に任せるのが一番いいと思った。事情もわかってるしね。それで移り住もうと決めた。娘も小さかったし、思い切って移住したんだよ」
——井川さんご自身は、駒里から東京に通われたんですか?
「いや、実際は、ほとんどいられなかった。同じころ、渋谷では公園通りに新しい店を開いてたし、ゲーテもあって、映画の撮影も始まってた。
ハタケにかまけていられなかったから、家族に任せるのが一番確かだと思って始めたんだから。
北海道で、家族とのんびりハタケだけやってるならいいけど、その間に東京ではいろんなことが起きる。帰るとなにかが起こる。だからますます、家には帰りたくなくなる」
——家族に任せて、何が変わりましたか?
「やっぱり、ぜんぜんクオリティが上がった。ハタケでとれたものが、頻繁に東京に届くようになったのも家族のおかげだ。
夏には『野菜のお中元』として、無農薬の夏野菜を箱に詰めて送ったり。トウモロコシもたくさんできたから、それも送ったりね。玉ねぎやにんにくも作ったし。
秋に収穫したかぼちゃは、東京の店でカンボジアプリンにしたり。黒豆やあずきも、たくさんとれた」
——大樹町のころとは、全く違いますね。
「大樹町じゃ、どれだけ苦労しても、そもそも農作物ができなかったから。それができるようになると東京にも少しずつ伝わる。
千歳に来て、大変ではあったけど、伝わるようになったのはそういう事が大きい。
2016年のお正月には、雪の下から掘り出したハタケのジャガイモを、三軒茶屋の店でじゃがバターにして出したりね」
——じゃがバターのときは、スタッフがひとこと添えていたそうですね。
「お客さんの前に置くとき、『このジャガイモは北海道にある我々の畑で雪の下で貯蔵したもので、一緒に添えたこの味噌もその畑の豆を使ったすべて手作りのマメヒコ特製味噌なんです』って。そう聞いてから食べたら、ただのじゃがバターとは、まったくちがうでしょ。
収穫したものを、東京でアナウンスできるようになったのは千歳の成果だ。作ることとアナウンスすること、両方の大切さを、とても感じた。けどこれはヒトによるところがとても大きんだよ。なかなか仕組みで解決するというふうにはならない」

——それでも、店のスタッフから見れば、ハタケは遠い北海道の話だったんじゃないですか? 東京のスタッフは、どう見ていたんですか?
「あのころ、ハタケも映画も、MAMEHICOの中じゃ、井川の道楽でやってるんだろう、って冷ややかに見られてた。今とはぜんぜん違う。だから、ボク自身がひときわ熱を入れてやるしかなかった」
——駒里の家族での暮らしも、1年で終わってしまったんですよね。どうして、やめてしまったたんですか?
「娘が、パパが帰ってこなくてさみしいし、もう東京に帰りたいって言ったのもあるね」
——家族なら、うまくいくと思った?
「そう思って始めたわけだからね。
でも、同じ場所、同じメンバーだと、どうしても見えるものが狭くなる。少数精鋭の、よくないところだよね。だけど、カフェのもうけじゃ、たくさんのヒトを雇えない。だから、少ない人数でやらざるを得ない。そのヒトの能力によるどころが大きい。
そのジレンマは、いまもずっとある」
——結局ヒトありきということですね。
「そうだよ。すべてはヒト。ヒトとヒトを、どう組むかという、マネージメントが大事になってくる。
ひとりでは、やれないんだからね。
でも自分が当たり前にできることを、他人はできないということをなかなか想像できるヒトは少ないよ。
そんなことはできてあたりまえと、みんな思ってしまう。
仕組み化しようとか決まりを作るとかいうのも大事だけど、ヒトをまとめるには、そのヒトの欠点に付き合うしぶとさ、しつこさ、杓子定規じゃかたちにはならないその泥臭さに耐えられるか、それが要るんだよ」
——井川さんは、よくヒトを金銀銅鉄にたとえますよね。
「金は美しいけど、柔らかい。鉄は輝かないけど、硬い。金で橋は作れないでしょ。金を鉄に変えようとしても、金は金のままというはなしだね」
——ヒトの特性をどう生かしたらいいかと。
「古いお城の石垣みたいに、形の違う石を組まなくちゃいけない。それがボクの役目。でも、組み合わせるには数がいる。一つしかないものは、組み合わせようがないから。だから、いつもたくさんのヒトでやりたいとボクは思う。結果的にはそのほうが遠くまでいけるから。それがボクの持論だ」
——それで遠足を始めたんですね。
「千歳空港から、車で15分でしょ。この近さなら、東京からお客さんをハタケに呼べると思ったのね」
──次頁「千歳、お客さんを呼ぶ」へ
コメント 0
コメントを投稿するには ログイン してください。