銀座はモーニングと予約制ランチ
GWも各店変わらず営業しています

ボクはテレビディレクターとして、ニューヨークで働いていました。大都会の真ん中に、誰でも入れる教会がいくつもあったんです。ひとりで静かに祈るヒトもいれば、何人かで語り合うヒトもいる。「個」と「集」が自然に同居しているその空気を見て、こういう場所が日本にもあればいいのに、と思いました。



帰国して最初に開いたのが、三軒茶屋のマメヒコです。「教会みたいなカフェにしたい」と思っていました。店の真ん中に長いテーブルを置いて、チャーチチェアで囲む。普段は静かにひとりで過ごせて、イベントのときはヒトが集まる。「個」と「集」を行き来できる空間を、カフェという形で実現させよう。そのためには数や効率ではなく、一期一会を積み重ねていきたい。けれど、商売として生き残れるのだろうか──前途多難な出航でした。




「喫茶がヒトをつなぐ場になるなら、文化を生みだすこともできるはずだ」と思って、渋谷・宇田川町に新しいマメヒコを作りました。その頃から、自分たちで小さなお芝居をやったり、音楽会を開いたりし始めました。カフェという日常の場所で、ヒトが集まって表現することを試していた時期です。お客さんもただ観るだけでなく、少しずつ関わり始めていきました。
インターネットラジオって面白いなと思って、試しに始めてみたんです。「ラジオマメヒコ」って名前をつけて、店での事件や出来事をそのまま話しました。特別な台本があるわけじゃなくて、日々思ったことを喋るだけ。それを遠くのヒトが聴いてくれて、感想をくれたり、わざわざ店に来てくれたりした。声ってちゃんと届くんだなと思いました。今いる若いスタッフはみんなこのラジオのリスナーだったヒトばかり。

依頼を受けて、西国分寺に「クルミドコーヒー」を作りました。同じころ、北海道の大樹町では「ハタケマメヒコ」を始めました。荒れ地を開墾して、自分たちで使う黒豆を育てようという実験でした。でも実際は、理想どおりにはいかない。雑草、天候、人間関係──失敗の連続でした。
マメヒコパートIIIオープン
純喫茶とパン工房、とんかつ屋をひとつの店でやるという、ちょっと変わった挑戦もしました。行き場のない困ってるスタッフをまとめて面倒見るための店でした。今思い返しても、とても美しくて画期的な店だったと思う。このとき作った家具が、いま御影にある棚です。


震災で放射能と計画停電が騒がれるなかで、「世の中は確実におかしい方向に進んでいる。このまま店主として黙っていてはだめだな」と思いました。クルミドコーヒーの店主と、日々感じる違和感を自分たちで発信しようと始めたのが「マメクル」です。喫茶を超えて、社会のことを語り合う場になっていきました。


「パートIII」の中にとんかつ屋を任せていたおじさんがいたんです。ある日、そのおじさんが突然いなくなってしまって。残された店とスタッフを前に、「じゃあどうしよう」と考えて、店を全部作り直すことにしました。喫茶と中華飯を融合した「マメヒコ飯店」という形で再出発。ここではじめて「マメヒコ定期券」の仕組みを始めたんです。常連さんの顔と名前を覚えられるようになって、一気にお客さんとの関係が近くなりました。
『紫陽花とバタークリーム』制作
「マメヒコで映画を撮ったらいい」と言ってくれたお客さんがいて、それがきっかけで本当に映画をつくることになりました。主演は田口トモロヲさん。内容は喫茶店の日常。「カフェで映画撮るから手伝って」と声をかけたら、お客さんがいつの間にか撮影スタッフになっていました。観る側と作る側の境界がなくなっていく、MAMEHICOらしい関係の原型がここで生まれました。



主演の田口トモロヲさんとは、第二弾『さよならとマシュマロを』の構想も話していました。「寅さんみたいに47作くらいやりたいね」と笑いながら。震災直後の宮城県でもロケをして、少しずつ社会的な視点も取り入れるようになりました。
ハタケマメヒコ千歳市に移動
北海道・大樹町でやっていた「ハタケマメヒコ」は、人間関係のいざこざで続けられなくなってしまいました。でもそのラジオを聴いてくれていたヒトから、「千歳に無農薬・有機の畑がある」と紹介されて、移ることにしました。空港にも近くて、環境もよかったので、家族ごと引っ越して一年間畑づくりを続けました。
店舗の再構築(渋谷・宇田川町/公園通り)
5月に渋谷店を閉じました。そして8月、宇田川町に新しい「宇田川町店」にリニューアルオープンし、9月には公園通り店も始めました。そして6月には「マメヒコ飯店」もクローズ。再開発で立ち退きとなったのです。今そこはアベマタワーになっています。同じ渋谷の中で、場所を変え、形を変えながら、何度もマメヒコを作り直していた時期です。

開店当初から作っていた冊子「M-Hico」をきっかけに、「お客さんが店を支える仕組みを作ったら」というはなしになり、M-Hico CLUBを設立しました。お客さんが店を支える。そんな考えが少しずつまとまってきたころです。
宇田川町店と舞台づくり
宇田川町店は、自分たちの作った映画を上映できるようにリニューアルしたんです。小さな小上がりと赤い緞帳をつけてチケットカウンターも備えた「ちいさな劇場」のような喫茶店にしました。せっかく小さな舞台があるのだからと、いくつものお芝居をつくりました。『お天道様とお月様』をはじめ、『ルンルー通りの三角形』。これが『ゲーテ先生の音楽会』につながっていくんです。


ひとり一台スマホを持つようになり、「個」へのサービスはもう足りているなと思いました。むしろカフェとしての課題は、「集」をどうやって作るか。それで、映画や舞台、ハタケ、遠足──といろんな活動を始めました。イタリア帰りの声楽家・増原さんと一緒に、音楽と芝居を混ぜたコントのような公演、『ゲーテ先生の音楽会』を始めたのです。
小さなお店Covivu コーヴァイヴを三茶に
三軒茶屋の今のお店の隣に、小さな物販だけのお店を始めました。その名もコーヴァイヴ。つまり購買部。ここでは珈琲豆を売っていただけじゃなく、牡蠣のオイル煮を作ったり、ドレッシングを作ったりして売ってました。このときに食物販の品揃えを充実させることの難しさ、安定的に均一な商品を作ることの難しさ。すべて自家製、手作りを並べる難しさ、在庫管理の難しさなど、嫌と言うほどの苦労を味わいました。そのときの辛酸が御影MINI、いまのマフィンにつながっています。入っていた建物は立て壊され、新しく建つビルに入る予定でしたが、色々あってそのはなしはなくなりました。いまとなっては幻の店です。

クルミドコーヒーの2号店として国分寺に「胡桃堂喫茶店」がオープンしました。前のお店とまったく違うテイストで作ったので、受け入れられるか心配でした。
エトワール★ヨシノ登場
『ゲーテ先生の音楽会』に出演していたボクがやった役が、売れないシャンソン喫茶の店主・エトワール★ヨシノでした。この公演は好評で再演を重ね、ヨシノはいつの間にか独り歩きを始めました。


2013年に東京オリンピックの開催が決まり、渋谷の街は再開発へと動き出しました。あちこちで工事が始まり、ヒトの流れも変わり、渋谷の店全般に影響が出ました。それで宇田川はクローズすることになりました。それでも『ゲーテ先生の音楽会』は続けようとなり、銀座にステージを探していたとき、まさにいまの場所を見つけたのです。
コロナ禍
パルコがリニューアルオープンし、ようやく街に活気が戻ってくるかと思いきや、すぐにコロナ禍になりました。ヒトが集まることそのものが制限され、「喫茶店は必要なのか」という問いを根本から突きつけられました。信じていたものが音を立てて崩れ、いよいよ「日本の底が抜けた」と感じました。コロナが始まって、ほんとうにお客さんは誰も来なくなりました。渋谷の公園通り店は、大家さんと家賃のことで揉めて裁判にまでなりました。
連続ドラマ『ノッテビアンカ』
営業どころか、まったく先の見通しも立たない。そんなとき、気心の知れたお客さんたちと話していて、「どうせ暇なんだから、連続ドラマでも撮ろうか」と思いつきました。撮影もぜんぶ素人の自分たちでやり、1年間かけて作り上げたのが『ノッテビアンカ』です。プロの俳優ではなく、ふだん店に来ているヒトたちが出演までやりました。
お弁当クラブ
テイクアウトの需要で売上を作ろうなんて気持ちはまったくありませんでした。最初は緊急事態宣言で、どこも食事処が閉まっていたころ。毎日のように顔を出してくれるお客さんやスタッフが、「珈琲とケーキだけじゃ不憫だろう」と思って、店内で玄米を炊き、ちゃんとしたごはんを作るようになったのが始まりです。やがて緊急事態宣言が明け、お客さんたちが少しずつ出勤しはじめたころ、「それなら、このごはんをお弁当にして持っていってもらえばいい」と思って、自然に「お弁当クラブ」が生まれました。


この年、渋谷の公園通り店を閉じることになり、「マメヒコ」は「MAMEHICO」という新しい形になりました。それは単なる名前の変更ではなく、考え方の転換でした。銀座、神戸、桐生へと拠点を広げながら、“ふれる・かかわる・ささえる”という関係性をもとに、お客さんとスタッフが一緒に店をつくる活動へと移そうと決めたのです。
「飲食を提供する」だけじゃなく、「関係を育てる」。MAMEHICOは、これからそういう場所にしなくちゃいけないなと思っています。

埼玉・富士見市の住宅街に、農家を営む方から頼まれ、「地域に開かれた場所」として作ったのが「空水茶屋」です。木の温もりに包まれた小さなお店で、暮らしに寄り添う喫茶の原点のような空間です。
紫香邸オープン(群馬・桐生)
「ノッテビアンカ」のロケで訪れた桐生で、古民家を解体するという話を聞きました。その建物を譲り受けて改修し、「紫香邸」が誕生しました。「当たり前に手入れをする」というMAMEHICOの思想を、そのまま形にした場所です。庭を整え、季節の草花を植え、ヒトが集って語り合う。桐生では、時間の流れそのものを大切にしています。


神戸・御影で迎えた二十周年。「喫茶とはなにか」「文化をどう続けるか」。この問いを改めて見つめ直す年になりました。三重から、かつて渋谷の音楽会に通っていたという若い女性が訪ねてきて、「病気でしばらく離れていたけど、また来れてうれしい」と言ってくれた。その顔を見たとき、ああ、続けてきてよかったなと思いました。
MAMEHICOという思想
MAMEHICOは、カフェという形を使って、ヒトがどう関わり、どう生きるかを考える場所です。それは単なる商売ではなく、20年間、何度も壁にぶつかりながら「じゃあどうする?」と考え続けてきた、生き方そのものです。
美しいこと。利他的であること。この世知辛い社会のなかで、どうやって真っ当に店を続けていくか。ボクがMAMEHICOを続けていく限り、そのことをいつも考え、工夫しながらやっていきたいと思っています。
今後とも応援をよろしくお願いします。