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崩れていく日々

私は美術史を本格的に学ぼうと決意し、東京にある大学の学芸員取得コースに応募した。書類選考に合格し、夢への切符を手にしたはずだった。だが、私はその道を選ばなかった。家族からの反対に遭ったからだった。

東京をあきらめた日

周囲の人たちの言い分はもっともだった。29歳ともう若くないのに、安定した職場と給与を棒に振るつもりか。保険と年金はどうやって払っていくんだ。美術館の学芸員なんて正社員の募集があるはずがない。やりたかったのなら、なぜ在学中にやらなかったんだ。

幼少期から親の顔色をうかがって生きてきた私にとって、その言葉は決意を揺るがすには十分だった。親の言うことばかりを聞いてきた私は、自分の判断にまったく自信がない。強く反対されると、「自分が間違っていたのだ」と思ってしまう。そして、親に反論してまで自分の希望を貫く力は、当時の私にはなかった。

入学許可をもらっていた大学へ、辞退の連絡を入れた。胸の中で膨らんでいた希望は一気にしぼみ、心の中は空っぽになった。

生活が崩れていく

支えを失った私は、生活を荒らしていった。

もともと18歳の頃から摂食障害に苦しんでいたため、食の異常行動はさらに激しくなった。一晩中コンビニをはしごし、スナック菓子やチョコレート、菓子パンを口につめこんでいるうちに夜が明ける。そんな生活が半年ほど続いた。

やがて、体に異変が現れ始めた。大量に食べているのに、みるみる体が痩せていく。玄関を出たところでふらつき、派手に倒れることも何度かあった。腹痛は当たり前になっていて気にも留めていなかったが、気づけば痛くない時間がない。やがて嘔吐も繰り返すようになった。

それでも私は、摂食障害による無茶な食生活の当然の結果だと思い込み、放っておいた。体調は悪化し続け、腹痛のため食事もままならなくなり、職場にも遅刻が増えていった。

「ガンだと思います」

職場の上司に検査を勧められたのは、2016年の年末だった。検査薬を飲んで数時間後、強烈な腹痛と呼吸困難に襲われた。私はそのまま緊急で病院へ運び込まれた。ストレッチャーで検査室へ向かう途中、顔見知りの看護師さんが私を覗き込み、「むらっちゃん、無理するでやわさ」と声をかけてくれた。その言葉だけは、今でも覚えている。

意識が朦朧とする中で検査を受け、診察室横のベッドで点滴を打たれながら横になっていた。やがて医師が入ってきて、モニターに検査画像を映した。内臓の写真を見せられても、素人には何が何だかわからない。

「何かありましたか?」
私が尋ねると、医師は画像の一点をペンで示した。
「これ、ね。」
肉の壁にできた棒状の突起を、ペン先がくるりと囲む。
「ガンだと思います。」

その瞬間、頭の中にさまざまな思いが浮かんでは消えた。
──ほら見ろ、やっぱり重病だったじゃないか。
──これでしばらく仕事に行かなくていいんだ。
──お母さん、ものすごいショックだろうな。大丈夫かな。
──大腸ガンか。死ぬことはないだろう。でもステージはどれくらいなんだろう。

ガンと告知された直後の気持ちとして言葉にできるのは、このくらいだ。もちろん、感じ方は人それぞれだと思う。ただ私は、この経験をしてから、ガン患者をひとくくりにして考えることはできなくなった。

なぜか、ほっとしていた

少なくとも私は、「死ぬかもしれない」という不安は1ミリも…いや、1ミリくらいしかなかった。むしろ、不調の原因がようやくわかったこと、そして苦しかった生活からひとまず降りられることに、どこか安堵していた。

ガンの告知を受けることよりも、このままの生活が続いていくことのほうが、私には苦しかった。自分の本当の気持ちを押し殺し、自分の希望を簡単になかったことにして、ただ働く。どうしようもない虚しさを紛らわせるために、自分を痛めつける毎日だった。MAMEHICOで感じた「本物」に惹かれながらも、自分はそこへ近づこうとしなかった。

今振り返ると、私の体にできたガンは、そんな生き方を続けていて本当にいいのかと、自分自身に問いかける出来事だったように思う。もちろん、生き方がガンを招いたと言いたいわけではない。ただ、あの病気がなければ、自分の生き方を見つめ直すこともなかっただろう。

とにかく、その晩病院に緊急入院したときの私は、不気味なほど心が凪いでいた。しかし、このとき「ガン」という病をなめていたことに、私は次第に気づいていくのである。

(つづく)