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なぎ倒されても日々を生きる

病理検査の結果、直腸がんstage3bと診断された。Stage3bとは、他臓器への転移はないものの、患部付近のリンパ節にがん細胞が転移している状態で、stage4の一歩手前にあたる。5年後生存率も、ここから急激に下がる。何らかの処置をほどこさなければ、リンパ節を通じてがん細胞が体内に散らばり、転移を引き起こす危険性がある。

そこで、手術と抗がん剤投与という治療を受けることになった。手術を受けることは怖かった。これまで幸い病気にも怪我にも無縁だったため、手術の経験はゼロだった。それがいきなり、全身麻酔で腹を切ることになった。

手術のあとで

手術室に入ってベッドに横たわってからも不安で仕方なかったが、麻酔医が「3、2、1」と唱えて、次に目が覚めたときは、体中にさまざまな管を通されて術後療養室のストレッチャーの上にいた。看護師に「どこか痛いところはないですか」と言われたとき、管を突っ込まれている鼻が痛くて苦しくてたまらなかったので、「ハナガイタイデス」と思わず返すと、相手は笑いながら「すみません、それはどうにもできません」と言った。

術後はまる3日間寝て過ごした。寝ていても本は読めたので、ベッドサイドに本を積んで、体力と気力があるときはひたすら読んでいた。痛み止めの効果が切れると、脂汗の出るような痛みが襲ってきた。ナースコールを押すと看護師が飛んできて、「ああ、本を読んでいない。大変だ」と、痛み止めを打ってくれた。

術後3日目に、「立ち上がるための訓練」をすることになった。そんなものが必要なのか、と半信半疑で理学療法士に付き添われ、ベッド横に立ち上がろうとしたとき、目の前が真っ暗になり、腰から崩れ落ちた。手術の日も含め、4日間も寝たきりでいると、立つことさえ練習しなければできなくなるのだ、と驚いた。

退院が決まったのは術後1週間経った頃だった。その1日前に流動食から普通食に切り替わり、恐る恐る「食べる」という行為を再開したところだった。こんなに早く退院しても大丈夫なのだろうかと、びくびくしながらの退院となった。

抗がん剤との闘い

抗がん剤治療が始まったのは、術後1カ月ほど経った頃だった。私は抗がん剤治療が終了するまで仕事を休職することになっていた。当初の予定では、治療期間は半年間になるはずだった。

入院の上、初回投与を受けた。この初回の投与では、ほとんど副作用も表れず、なるほど、これなら楽なものだ、医療が発展して治療も進歩しているというのはあながち嘘でもない、と呑気に構えていた。

抗がん剤副作用の真の威力にさらされたのは、3回目の投与のときだった。病院まで母に車で送ってもらっていたのだが、帰りの車の中で、車酔いをしたような気分の悪さを感じた。車酔いなのだから、車を降りたら治るだろうと思っていたが、車から降りてどれだけ時間が経っても気分が改善しない。むしろどんどん悪くなる。しまいには呼吸がしにくくなり、水を飲もうと思っても飲み込むことさえ困難になる。知人の医療関係者に相談すると、これが抗がん剤の副作用であるということだった。

この強烈な副作用は、以後の治療期間中ずっと続いた。まさに、「なぎ倒される」という感覚だった。投与後の2日間は、ほとんど意識朦朧とした状態で寝ているしかなかった。吐き気と気分不良が改善しても安心できるわけではなく、そこからは手先や口腔内の痺れ、便秘と下痢の繰り返し、頻発する鼻血などの不愉快な状態が続いた。特に味覚障害と口腔の痺れにより、水を飲むことが苦痛な行為になってしまうことには困り果てた。

限られた時間をどう過ごすか

もう一つ厄介だったのは、「白血球値減少」という副作用だった。体内へのウィルスや細菌の侵入を防ぐ役割を持つ白血球が減少すると、感染症などにかかりやすくなる。がんで体力が落ちている患者にとっては、油断できない事態だ。あまりにも白血球値が下がりすぎると、治療を行うことができず、外出など外部との接触も限られる。

私はなぜか白血球値が下がりやすく、せっかく病院まで行ったのに治療を受けられないことが多かった。そのため、半年間を予定していた休職期間はずるずると伸び、1年を超えようとしていた。

休職期間中はずっと実家にいた。病院に行く以外は、ほとんど外出もしなかった。自分の部屋で寝ながら、ただひたすら本と新聞を読んでいた。抗がん剤のハードさを身をもって体験したとき、この治療期間中、意識があって元気があるときは好きなことしかやらないぞ、と固く心に決めたのだった。起きていられる時間自体が、健康な人に比べると少ないのである。余計なことをしている暇はないのであった。

日常へ帰るために

抗がん剤を打ってから2日間は昏睡するように寝込んで、起き上がったら、世界各国の文学作品や人文書、美術評論などを手あたり次第読み込んだ。

そのような中で、時々MAMEHICOのラジオを聞くことが息抜きだった。そこには「滞りなく流れる清潔な日常」の雰囲気があり、聞いている間は過度に文字の世界へと集中していく意識を和らげることができた。

ともすれば肉体を伴う生から遊離しがちな現状にあって、文化や美を日常生活の領域で実現しようとするMAMEHICOのことを思い出すことは、いずれ社会へと帰っていくための心の準備として、機能していたように思う。

(つづく)