少しでもお役に立てれば
小さい頃から落ち着きのない性格で、たくさんの怪我や無茶を繰り返しながら育ちました。スーパーの鮮魚売り場でのバイトに夢中になり、最初の就職先もスーパーを選びましたが、実家の自営業を手伝うために退職。その後はいくつかの事業に挑んでは失敗し、倉庫管理の仕事に落ち着きました。
ところが令和3年7月6日、風呂場で倒れて、そのまま入院。診断は、脳幹出血による半身麻痺でした。これまでで間違いなく一番ツラいリハビリを越え、無事に退院。いまはB型就労支援に通いながらリハビリを続け、通所からバイトへと昇格しました。生活保護と併用しながら、なんとか暮らしています。
さて、このお話をいただいたとき、私なんぞがひとさまに向けて書けることなど何もないと思い、最初はお断りしようと考えていました。それでも振り返ってみると、私が脳出血で倒れるまでには、避けられたはずの原因や、見逃していた前触れが、いくつもありました。それを包み隠さず書けば、同じような暮らしをしている方が、ふと立ち止まるきっかけになるかもしれない。少しでも、読んでくださる方への注意喚起になればと思い、お引き受けすることにしました。少し生々しい内容になるかもしれませんが、なるべく細かく書こうと思います。同じような状況にならないための、ほんの少しの参考になれば幸いです。

あの日の倉庫
私は令和3年、誕生日を迎えてまだ2週間も経たない7月6日に、脳出血を発症しました。その日は、7月とは思えないほど暑い日でした。私は倉庫で働いており、職場は古くて広い建物だったため、エアコンがありませんでした。真夏の倉庫はとにかく暑く、その中でフォークリフトに乗り、荷物の荷下ろしや出荷作業に追われていました。
月に12本、多いときには1日に4本もの40フィートコンテナの荷下ろしを、手作業で行うこともありました。毎日、Tシャツを3枚着替えるほど汗をかいていました。もちろん、水分補給は欠かしませんでした。ですが、飲んでいたのはスポーツドリンクや甘いジュースばかりでした。ちなみに私は昔から太っていて、母方の血筋もあり、学生の頃から高血圧でした。当時の血圧は、通常時でも上が190、下が120を超えていたと思います。今振り返れば、いつ倒れてもおかしくないほど危険な数値でした。
右手の違和感
その日も仕事を終え、クタクタになりながら19時頃に帰宅しました。汗だくの身体をさっぱりさせようと、いつものようにシャワーを浴びていました。少しぬるめのお湯を浴びていると、シャワーを持っていた右手に、違和感を覚えたのです。正座した足がしびれたときのような感覚でした。
力仕事なので、重い物を持った日は腕がだるくなることもありました。そのため、「ああ、今日も疲れたからな」くらいにしか思っていませんでした。ところが、その違和感はいつもと違いました。シャワーを持っていた右手に、少しずつ、でも確実に力が入らなくなっていき、気がつくとシャワーを落としてしまったのです。
手から落ちた瞬間、「何かがおかしい」「これはヤバいかもしれない」そう思いました。
すると、その直後から、一気に身体が動かなくなっていきました。貧血で意識が遠のくときに近い感覚に襲われ、「このままでは倒れる!」という恐怖を感じました。そこで、当時一緒に住んでいた彼女を呼ぼうと、風呂場のドアを開けて声を出しました。出したつもりでした。ですが、実際にはまったく声になっていなかったそうです。そのまま私は、風呂場の入口をまたぐような格好で、うつ伏せに倒れ込みました。

救急車で運ばれて
ここから先の記憶は、ところどころしか残っていません。今でも断片的に思い出せるのですが、どれも音のない映像を見ているような、不思議な感覚で残っています。そのため、この先は家族や彼女から後で聞いた話も含めて書いていきます。
彼女に、私の声が届いたわけではありませんでした。ただ、トイレへ向かう途中、シャワーの音がいつもより大きく聞こえ、不審に思って、たまたま様子を見に来たそうです。すると、そこに私が倒れていました。彼女は介護士だったので、すぐに「これはマズい」と感じ取ったそうです。大声で呼びかけても呂律は回らず、意識も混濁している状態でした。「これは動かしたら危険だ」と判断し、冷静かつ迅速に救急車を呼んでくれました。
救急車が到着するまでに意識がなくなると危険らしく、意識が途切れないよう、ずっと大声で呼びかけ続けてくれていたそうです。到着後も、救急隊員へ状況を丁寧に説明してくれました。私は全裸のまま担架に乗せられ、寝室で使っていたタオルケットを掛けられて、救急車へ運ばれました。そのとき、一瞬だけ外の空気が寒く感じたことを覚えています。夏なのに、そりゃ濡れていたら寒いか…。そんなことをぼんやり考えていました。今となっては笑い話ですが、なんと余裕のあることでしょう。
後日、彼女から聞いて驚いたことがあります。当時の私の体重は120kgあり、少し入り組んだ風呂場だったこともあって、救急隊員2人だけでは私を動かせなかったそうです。そこで応援を要請し、しばらくして消防隊員も到着。さらに2名が加わり、計4名がかりで、ようやく風呂場から運び出せたのだとか(笑)。
救急車は、患者を乗せてから受け入れ先の病院を探します。何件も電話をかけ、受け入れ先が決まるまで出発できないのです。その間に彼女は、母や弟たちにも連絡をしてくれていました。その後、私はどこかの病院へ運ばれたようです。どこを通ったのかも覚えていませんが、廊下を搬送されているとき、三男の姿と、母の「聞こえる? 大丈夫?」という声だけは、なんとなく覚えています。
そのときの私は、「結構大事になってるな」「また母に心配をかけてしまったな」などと、今思えばずいぶん能天気なことを考えていました。
三日間が峠です
そこから先のことは、時間とほとんど結びついていません。何時間が経ったのか、翌日なのか、その翌日なのかも、まったく分かりません。次にはっきり意識が戻ったとき、私は集中治療室のベッドに寝かされていました。中央にナースステーションがあり、その周囲をベッドが囲むような病室でした。
目だけは動かせたので周囲を見回すと、隣の患者さんは、開頭手術後の経過観察中だったのでしょう。その方が起き上がったときに見えたのですが、頭部から血を抜くための手術が施され、頭には透明なサランラップが巻かれていました。とても痛々しい姿でした。後で調べると、傷口の確認がしやすく、出血も防げるためだそうです。サランラップ、優秀すぎないですか?(笑)
一方で、私の頭には、手術をした形跡がありませんでした。「ああ、自分は手遅れなのかな」「それとも、これから手術なのかな」そう思っていたのですが、後日、医師から説明を受けました。
私が発症したのは脳出血でしたが、出血した場所が脳幹だったのです。脳幹は脳の中心部にある、とても重要な部位です。あまりにも奥深いため、開頭手術ができません。そのため、溜まった血の塊が自然に吸収されるのを待つしかなかったそうです。医師は家族に、「今後3日間が峠です」と説明していたと、後に彼女から聞きました。
その時の私は、時間の感覚を完全に失っていました。ただ、身体がほとんど動かないことだけは分かっていました。それでも、自分が生死の境をさまよっているなどとは、夢にも思っていなかったのです。

(つづく)



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