当たり前を取り戻す
リハビリが始まって約2週間が経った頃。流れは分かってきましたが、身体も心も、まだまだ追いついていませんでした。
毎日やることは同じです。PT(理学療法士)の先生とは、膝立ちになって左右へ体重を移動する練習。OT(作業療法士)とは、電気を流しながら手や指を動かす練習。少しずつ動けるようにはなっていましたが、もちろん「劇的に回復!」なんてことはありません(笑)。
ただ、発症から3か月くらいまでは、身体がいちばん回復しやすい時期だと聞いていました。だから、「今やれることを、毎日やるしかない」と思い、とにかく地道にリハビリを続けていました。
歩けるようになりたい
そんなある日、注文していたものが届きました。右足用の装具です。右足は膝に力が入らず、急にガクッと折れてしまうことがありました。転倒を防ぐために、自分の足型に合わせて作る装具です。
先生からは、「自分に合った装具で歩いたほうが、バランス感覚も早く身につきますよ」と説明されました。正直、ちょっと営業トークっぽく聞こえなくもありませんでした(笑)。でも、「早く歩けるようになるなら!」その一心でお願いしました。ところが、これが約8万円。そんな高い靴、普通でも買ったことありません(笑)。今でも、この装具は大切に取ってあります。
これを見ると、あの頃の自分を思い出します。立つことも、歩くことも、当たり前ではなかった。それでも、もう一度自分の足で歩きたくて、毎日必死になっていた自分。今こうして歩けているのは、あの頃の自分が諦めなかったからなのかもしれません。そう思うと、8万円の装具も、私にとってはただの「高い靴」ではないのです。

そして、もうひとつ大きな転機がありました。ST(言語聴覚士)の先生とのリハビリです。ある日、私は先生に本音を漏らしました。「重湯が本当に苦痛なんです…」すると先生が、「じゃあ、嚥下のリハビリを先に始める?」と言ってくれました。
今は誤嚥する危険があるから重湯になっている。でも、安全に飲み込めるようになれば、普通の食事に戻せる。そう説明されました。
「ぜひお願いします!」私にとって、それは今までで一番大きな希望でした。先生は、「いいよー」と、なんとも軽い返事(笑)。でも、その一言が本当に嬉しかった。
食べることは、生きること
この日から、私の最優先課題は「食べられるようになること」に変わりました。STのリハビリは2日に1回、1時間だけ。だから、病室に戻ってからが本番です。自主練習用の教材をコピーしてもらい、個室だったこともあって、一日中声を出して練習しました。
何度も繰り返したのが、「ぱ・た・か・ら」です。
「ぱ」は唇。
「た」は舌先。
「か」は飲み込む力。
「ら」は、食べ物を口の中でまとめる力。
それぞれ、食べるために必要な動きを鍛える言葉です。
「ぱ・た・か・ら」
「ぱ・た・か・ら」
何十回、何百回、何千回と言ってもいいくらい、毎日繰り返しました。個室だったので、周りを気にすることなく、ひたすら声を出していました。今思えば、かなり地味な練習です(笑)。でも、私は本気でした。一日でも早く、普通にご飯が食べたかった。

そして練習を始めて約10日。ついに、一般食へ戻る許可が出ました。ご飯をひと口、口に入れる。しっかり噛んで、ゴクンと飲み込む。それだけのことが、あのときは本当に嬉しかった。
「ああ、普通に食べられる」そう思ったら、泣きそうになりました。これまで当たり前だったことが、こんなにも嬉しいなんて。食べるって、生きることなんだな。…やっぱり、食事って大事ですね(笑)。
歩くことに夢中だった
食べられるようになると、体力も気力も一気に戻ってきました。伝い歩きなら、病室の中を歩けるようにもなりました。
夕食後の自由時間。テレビを見る人。知り合った患者さんと話す人。部屋でゆっくり休む人。そんな中で、私はひたすら歩きました。
病院の廊下を、手すりにつかまりながら何周も何周も。
「まず右足を上げる」
「前へ出す」
「膝が折れないように体重を乗せる」
頭の中で一つずつ確認しながら歩きます。無意識にできるようになるまで、何度も何度も繰り返しました。
たまにPTさんに見つかって、「ほどほどにね」と言われることもありました(笑)。もちろん、転倒したら大変だからです。でも、一番歩けるようになりたいと思っているのは自分でした。
食べられるようになって、気力も体力も戻った。このタイミングを逃したくない。汗だくになるまで歩いて、汗が引いたら病室へ戻る。そんな毎日でした。
できることが増えていく
そしてある日。コロナで面会ができなかった私のために、彼女が病院の受付まであるものを届けてくれました。そうです。スマホです!ついに文明の利器を手に入れました(笑)。テレビカードとイヤホンまで入っていました。私はもともと左手でスマホを操作するので、この頃には問題なく使えました。…と思っていました。
実際には、後になって左側の身体にも少し動きや力の鈍さがあったことを知るのですが、このときは気づいていませんでした。それでも、スマホのおかげで、初めて家族や彼女とゆっくり話すことができました。
そこで私は初めて知ります。「最初の3日が峠だった」医師から、そう告げられていたこと。家族がどれほど心配していたこと。自分が思っていた以上に、あのときは大変な状態だったのだと。でも、その話を聞けるくらい、自分の中にも少しずつ余裕が戻っていたのだと思います。
歩きたい。食べたい。もっと自分でできることを増やしたい。そんな気持ちが、少しずつ戻ってきていました。病院でのリハビリだけでなく、YouTubeでリハビリ動画を探しては、「今の自分にできることは何か」を考える。
できることを一つずつ増やしていく。あの頃の私は、そんな毎日に夢中でした。振り返ってみると、それこそが、私にとっての「回復への道」だったのかもしれません。
(つづく)



その時のことをありありと思い浮かべながら書いてらしたのでしょうか。読んでいても、発症してから初めて食べられたこと、歩けたこと。その描写がこちらにもありありと伝わってきました。私としては、前回同様、息子の成長を見守る母親の氣持ちになりました。 当事者は必死で、むしろ一番近くで見守ってる人が、まるで自分のことのように疑似体験しているのかもしれませんね。 赤ちゃんは、おっぱいを飲むことは生まれてすぐに本能で知っているのですが、ごはんを噛んで食べるということは、自分で訓練して覚えていかなければならないのです。それを並走してサポートするのが子育てをする人の役目です。自分で食べられるようになった赤ちゃんは、まるで、流動食から一般食へ移行できたアスクさんそのものですね。 今回も、貴重なお話しを教えてくださりありがとうございました。次回も楽しみにしています。
不思議なんですが、記憶障害になってるはずなのにこの時の記憶は結構残ってるんです。 私の場合は今改めて振り返ったら、ただ理由付けしてこうだったよなーとか勝手に感情を説明してるだけな気もしてます。 あの時は日々それしかやる事なくて、1つしか目標がなかったからただひたすらそれをやってただけだとも言えますがそれこそ固形食に必死だったのは間違いないです(笑)
もし、先生の判断で、嚥下のリハビリが後回しになっていたら。 もし、アスクさんが、重湯が苦痛で…と漏らさなかったら。 ほんの小さなことに思える何かが、後に人生の大きな転機になったりしますよね。。 運と縁、というものについて、しみじみと考えながら読ませていただきました。
いや本当にあのままだったらやる気も元気もあそこまで出なかったと思います。 先生がとても寄り添ってくれて融通を利かせてくれる先生達だったので、あの時にあそこに住んでてあの病院に搬送された事を今は感謝しています!