名前をつけない

最近、MAMEHICOのことをインスタなんかでもちょこちょこ発信しているんですが、そうすると必ずこう聞かれるんですよ。「MAMEHICOって結局何なんですか」って。映画を撮るって言えば、カフェなのに映画も撮るんですかって驚かれるし、オーナーさんは歌手なんですかとか、まあ色々でね、なんて答えていると、結局「MAMEHICOって何なのよ」というところに、必ず戻ってくるわけです。
ボクは小さい頃から、あらゆるものに名前をつけて、意味を与えて、体系化して、それでわかったような気になって何もしないくせに批判ばかりする大人にだけは絶対にならない、と決めていたところがありましてね。だから名前をつけるということが、あんまり好きじゃないんですよ。いや、好きじゃないというのは嘘かな。ヒトにあだ名をつけるのは大好きなので。自分が名前をつけられるのが嫌なんです。輪郭はずっとぼやけたままにしておきたい、という気持ちが強い。
たしかに名前をつけると、いろんなものは便利になります。一番わかりやすいのは病名です。うちの子、発達障害だったのか、ああ、道理で、と納得できる。治療法もありますよ、となれば、なんだか救われた気にもなる。レッテルを貼ることで、ヒトは腑に落ちて安心するものなんです。でも、それで「わかった」つもりになってしまうことが、ボクは怖いんですよね。
昔、味噌会というのをやったことがありましてね。1回目は塩、2回目は大豆、3回目は麹について、それぞれ2時間ただただ喋るという会だったんです。1回目は「味噌買い」というネーミングにつられて、100人くらい集まった。今でも伝説になっています。でも、当然みんな味噌が作れると思って来ているので、塩の話しかしないボクにブチ切れるわけですよ。味噌作るんですか、って。こっちは味噌について語る会だと思っていたので、味噌は一切作れませんと。そりゃお客さんが怒るのも当然です。名前が期待を生んで、その期待とのズレが裏切りになる。2回目は50人、3回目は25人、最後まで残ったのは8人。今もその8人は、コロナのときも辞めなかった常連さんたちです。
つまりネーミングというのは、ある種の期待なんです。「MAMEHICOは学びの場です」なんて名前をつけたら、たしかにわかりやすくはなる。でも、ボクの実感とはどうしてもしっくりこない。コーヒーが美味しいお店、駅前だから便利なお店、案外高いから空いているお店。それはお客さんそれぞれが受け取って評価すればいいことであって、店の側が決めることじゃないと、ボクは思うんです。
これが厄介なのは、一度名前がついて一人歩きを始めると、もう本人にも止められなくなるということです。国民的アイドルグループみたいなものを想像してもらうとわかりやすいんですが、一度「国民的人気アイドル」というイメージがついてしまうと、本人が「そうじゃない、これが本当の自分だ」と言おうとしても、周りは色眼鏡でしか見てくれない。これうちのことなんだけど、って言っても、いやいやあなたはそんなことしないから、と黙らされてしまう。全部自分が決めていたはずなのに、蚊帳の外に置かれるわけです。
だからボクは、MAMEHICOに名前をつけないんです。名前がつきそうになったら、慌てて壊しにいく。おしゃれで映えそうな空気になったら、あえてダサくする。バラの中にパフェがあるみたいな、いかにも映えそうな写真は、逆に絶対に撮らない。固定の名前をつくるということは、便利さと引き換えに、副作用も背負うということなんですね。自分たちで場所を作って、時間もエネルギーも注いでいるからこそ、そこにヒトを集めたい、お金を稼ぎたいというよこしまな気持ちが混ざってくると、名前をつけたくなる。でも、それで一人歩きした名前に沿う人生というのは、とても不自由なものだと、ボクは思うわけです。
わかったつもりにならないこと。輪郭をぼやけさせたままにしておくこと。それが、MAMEHICOをずっとMAMEHICOのまま生かしておくコツなのかもしれません。

「分かったつもり」になっていませんか?
名前をつけることの便利さと、
その副作用について。
ぜひ一度、耳を傾けてみてください。








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