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万物斉同

「万物斉同」という言葉をご存知でしょうか。
老子・孔子・荘子、中国の三賢人の中の荘子の言葉です。
「万物」はありとあらゆるもの。
「斉」はバラバラなものを揃えること、「同」はひとつと見ること。
つまり、あらゆるものは、揃えて見れば、ひとつだ。そういう考え方ですね。

どういうことか。

たとえば牛は大きい。でも象から見たら小さい。アリは小さい。でもダニから見たらアリは大きい。
ある国では大麻を吸うことが普通で、日本では逮捕される。地球の周りを太陽が回ると信じられていた時代があって、今は逆になっている。
正しいとされることも、時代によって、立場によって、ひっくり返る。

荘子はそのことをずっと考えていて、ふと気づいたわけですよ。あらゆることに絶対の正しさなどなく、こっちから見れば正しいし、あっちから見れば間違っている、それだけのことだと。
見ている側がどこから見ているかだけが、違いを作っている。物事そのものは、それほど変わらないんだと。

この荘子に、有名な「蝶の夢」という話がありましてね。

ある時、荘子が夢の中で蝶になって、ひらひらと飛んでいた。めちゃくちゃ楽しい、自分は完全に蝶だと思っていたら、ふっと目が覚めた。「あ、夢か」と思った瞬間、はて、と考えた。
さっきまで自分が蝶になった夢を見ていたのか。それとも今ここにいる自分こそが、蝶が見ている夢の中の存在なのか。

どっちなんだろうと考えた荘子が出した結論は——「どっちでもいいよね」でした。
確かめようがないし、どっちから見るかでしかないから、本当にどっちだっていいわけですよ。

これが荘子の万物斉同なんですね。

ボクはこの荘子を読んで「発見した」というより、元々自分が持っていたものを荘子が言語化してくれていたという感覚だったんです。あ、同じように思っているヒトがいたんだ、と。

MAMEHICOでも、スタッフがああでもないこうでもないと言っていると、ボクはよく「どっちだっていいんじゃない」と言ってしまうんですよ。そうするとみんなむっとするんですけどね。でも本当に、どっちだっていいことっていうのは、けっこう多い。

自分の意見と、相手の意見。どっちが正しいかで揉めているけれど、立つ場所を入れ替えたら、そっくり逆のことを言っているだけだったりする。あなたとわたしの境目も、案外、その程度のものなのかもしれません。

それと同じようなことを、日本の詩人の金子みすゞも書いていましてね。
「不思議」という詩があるんですよ。

不思議

 私は不思議でたまらない、
 黒い雲からふる雨が、
 銀にひかっていることが。

 私は不思議でたまらない、
 青い桑の葉たべている、
 蚕が白くなることが。

 私は不思議でたまらない、
 たれもいじらぬ夕顔が、
 ひとりでぱらりと開くのが。

 私は不思議でたまらない、
 たれにきいても笑ってて、
 あたりまえだ、ということが。

黒い雨が銀に光る。桑を食べた蚕が白くなる。誰も触れないのに夕顔がひらく。ぜんぶ、当たり前だと笑われてしまう。その、笑われることのほうが、また不思議だ、と。

万物斉同という考えに、金子みすゞはとても近いと思う。あなたと私を区別しない、違いというものをなぜみんな当たり前のように受け取るんだろう、という感覚がね。

うちのスタッフの日野さんなんかは、まさに金子みすゞそのものなんですよ。他人と自分をことさら区別しない。これは私のもの、それはあなたのもの、という感覚が薄い。

ただ、それはふわふわしているのとは違う。自分というものがある程度自立しているからこそ、余裕を持ってそう思えるんですよね。自立しているからこそ、自分のものを、そんなに握りしめなくていられる。

ボク自身は、というと、なかなかそうもいかない。これはボクの店、これはボクの歌、と、つい握りしめてしまう。孔子みたいに、欲や野心が、まだまだ抜けないんです。だから荘子や金子みすゞを読むと、ああ、こっちだよな、と、背筋を正される思いがする。

どっちが正しいかじゃなく、どっちから見るか。

どっちだっていい、というのは投げやりじゃなくて、実は一番深いところに立っている言葉なのかもしれませんよ。

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MAMEHICO代表・井川さんのラジオです。
何気ない言葉の中に、ふと立ち止まるきっかけがあります。
中国の三賢人の中の荘子の言葉、「万物斎同」とは?
ぜひ一度、耳を傾けてみてください。
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