親子の考察

こう見えても、ボクも一応ヒトの子でしてね。 親がおりますし、子もおります。 で、この「親子」というものについて、最近あらためて考えていたんですよ。
きっかけは、荘子のある言葉でした。
老子・孔子・荘子、中国の三人の賢人がいますが、ボクは孔子が説いた儒学、そしてそれが制度として祭り上げられていくプロセスが、あまり好きじゃなくてね。その点、荘子はいい。
荘子はこんなことを言っているんです。
「敬いを持ってする孝行は易しく、愛を持ってする孝行は難しい。愛を持ってする孝行は易しくとも、親を忘れることは難しい。親を忘れることは易しくとも、親をして我を忘れしむることは難しい」と。
どういうことかというと、孝行には段階があるよ、ということですね。
まず一番やさしい孝行は、礼儀正しく親に接すること。おはようと言う、お茶を入れてどうぞと差し出す。こういう「敬い」の形。子供にだってできますよ、これは。
次の段階が、形だけでなく、心から親のことを愛しく思って孝行すること。愛を持ってする孝行は、ごまかしが効かないからこそ難しいわけです。
ところが荘子は、もう一段上があると言うんですよ。
それが「親を忘れること」なんですね。
親のことをいちいち意識しない。「自分はいい子でいよう」「親に褒められるようにしよう」。そういうことを考えながら接する親子関係は、まだまだ未熟だよと。
たとえば、小さな子供が、お母さんの隣で、すうすう寝ているでしょう。あの子は「自分は愛されているなあ」なんて、考えて寝てはいない。ただ、眠いから、寝ている。親のことなど、意識すらしていない。あの無防備さこそが、本当の愛の中にいるということなんでしょうね。
さらに荘子には、もう一段あります。
「親をして我を忘れしむる」こと——つまり、自分が親を忘れるだけじゃなく、親の方にも自分のことを忘れさせてしまうくらい、自然な関係であること。お互いがお互いを意識しなくなる。「あれは私の子供だ」「これは私の親だ」とわざわざ考えないくらい、解け合っている。それが一番の孝行なんだよと。
これ、ボクはとてもしっくりくるんですよ。
というのも、白状すると、ボク自身、特段「親だ、子供だ」という意識が、薄いんですね。
周りを見ていると、親のことが好きじゃない、価値観が合わない、どうしてわかってくれないんだ——そういう関係のヒトは少なくない。でも、それはそれで、親のことを強く意識しているわけですよね。反発も、愛着も、どちらも意識から来る。
野生の動物には、そもそも孝行という考えがありません。でも、母グマが子を守る力は、人間の比じゃない。いざとなれば、自分の命を捨ててでも、子を守る。孝行しよう、守ろう、なんて考えてはいない。ただ、自然に、そうなっている。荘子が言っているのは、おそらく、そういう状態のことなんですよ。
大事なのは、自立しているということ。自分は自分。それぞれが自分の足で立って、その上で、どういう距離感でいるか。親を忘れ、さらには親にも自分を忘れてもらえるくらいの、自然な関係。
傍から見れば、それは、水臭い親子に映るかもしれません。
親にもっと優しくしてもらえたらよかったと、ボクだって思わなかったわけじゃない。 けれど、荘子のこの言葉に触れてから、あの水臭さこそが、親孝行の極みなんだと、思えるようになったんです。
皆さんはいかがでしょうか。

何気ない言葉の中に、ふと立ち止まるきっかけがあります。
親子とは?親子の距離感とは?
ぜひ一度、耳を傾けてみてください。







