あるお便りから

先日のおもしろラジオで、アリストテレスの「幸福」をテーマに話しまして、
その回に出てくれた方からお便りをもらったんですよ。
ちょっと紹介させてください。
「テレビを見せてもらえない家で育った私は、勉強用に買ってもらったラジオを聞くのが大好きでした。いつか自分もラジオに出てみたいなという夢を持っていたので、それが叶ったような気持ちになれて、とても嬉しかったです」
そう書き出してくれた上で、こう続くわけです。
「冒頭に幸せになりたいという女の子が出てきますが、その言葉にはっとしたんです。私はそもそも幸せになりたいと思って生きているのかなって。10代後半までは確かに幸せになりたいと思っていた。でも20代以降、幸せになりたいと思った記憶がない。目の前のことに必死だったからなのか。アリストテレス的に言う長続きしない快楽的幸せに目が向いていたので、幸せだったのかもしれないけど、いつもどこか不安でした」
これは、ボクへ宛てたものではないんですけれどね。
でも久しぶりに、ラブレターを受け取ったような気持ちになりましてね。
勝手に受け取りました。
お便りはさらにこう続く。
「ラジオの後半、アリストテレスの遺言が紹介されますが、これが実に面白いんです。幸福とは何か、徳を積むとはと大きなテーマを扱ってきたアリストテレスが、人生の晩年は毎日家族のことを考えていた。急に親近感が湧きました。幸せって、でっかい話じゃない。毎日そばにいる人のことを考えることなんだよなと」
そうなんですよ。
ボクがラジオで言いたかったことを、そのままダイレクトに受け止めて、打ち返してくれた。
多くの宗教家も、哲学者も、ゲーテだって、みんなが同じことを言っている。
幸せとは消費行動の中にあるんじゃなくて、身近な日常の中にこそある。
日々をそこから切り離したところで構築しなさいよ、と。
「快楽的な幸せ」——つまり買うこと、手に入れること、注目されること——
そこにあるのは一時の満足であって、その後ろには必ず不安がついてくる。
それはある種の消費行動そのものだからですね。
ところがこれ、頭でわかっていても、なかなか腑に落ちないわけですよ。
ボクが会う20代や30代の方に「目先のことだけじゃダメだよ」なんて言ったところで、「じゃあどうしたらいいんですか」ってなる。
それはそうなんですよ。
知識として持っていることと、それが自分の生き方として染み込んでいることは、全然別の話ですから。
アリストテレスはこういうことも言っているんですね。
人間は一人では弱い。だから「ポリス」という共同体の中で、徳を積んでいくものだ、と。
徳というのは、習慣によって身につくものなんですよ。
集合の中で、日々少しずつ積み上げていくしかない。
ただ——これが難しいところでしてね。
そういう哲学的・精神的なことと、日々の経済、お金の問題を、どうやってうまく噛み合わせていくか。
MAMEHICOなんかをやっていると、この問いがいつも目の前にある。
精神論ばかりでは続かない、お金だけを追っても違う方向に行く。
どうにかその両方を、サスティナブルな形で成り立たせていけないかということを、ボクはずっと考えているわけです。
そしてお便りは最後にこう結んでいました。
「知性を保ちながら敵を作らない共同体をどう維持していくか。こんなことを考えさせてくれるMAMEHICOという場所があることに、心から感謝です」
ありがとうございます。
こうして誰かがラジオを受け止めて、自分の中で咀嚼して、また別の誰かへ投げかけていく。
そのリレーが、ボクにとってはMAMEHICOをやり続ける、大きな励みになっているんですよね。
幸せはでっかい話じゃない。
毎日そばにいるヒトのことを考えること。
それに尽きるんですが、それが一番難しかったりもするわけで。
自戒を込めて、のお話でした。

何気ない言葉の中に、ふと立ち止まるきっかけがあります。
「幸せはでっかい話じゃない。」
「毎日そばにいるヒトのことを考えること。」
ぜひ一度、耳を傾けてみてください。







