商店街が消えた日

ボクのところには日々、相談が届きます。
毎月きちっと働いて、お金もそれなりにもらっている。でも何か虚しい。
そういう女の子からの相談ですね。
虚しいとダイレクトには言わないんですよ。かわりに、こういう言葉で届く。
このまま結婚しないのかな。このまま子供を産まないのかな。
このまま東京にずっといるのかな。でもだからといって実家に帰っても……と。
何かが足りない気はするけれど、何が足りないのかが分からない。そういう状態ですね。
東京というのは、地方から出てきたヒトが夢や期待を持って集まってくる場所です。
でも実際に暮らしてみると、その期待とのあいだには、けっこうなギャップがある。
仕事とスマホと、ささやかな暮らし。
それ自体は悪くないけれど、「これのために東京に来たのか」という問いが、ふとした瞬間に顔を出すわけですよ。
今日はそういう話の背景にある、商店街が消えた話をします。
そもそもなぜ、あなたの実家の商店街は消えてしまったのか。
ボクは1973年生まれで、札幌、仙台、東京と転勤族の家庭で育ちました。
だから1980年代の商店街というものを、わりとよく覚えているんです。
チェーン店のドラッグストアやマクドナルドが並ぶような今の商店街ではなくて、本当の意味での商店街。
肉屋さん、魚屋さん、豆腐屋さん、漬け物屋さん。そういうものが、どこにでもありました。
あの商店街が壊れ、雇用の形が変わり、共同体が解体していったのには、はっきりした時期がある。
冷戦の時代、アメリカとソビエトが睨み合っていた頃、日本はアメリカにとって「共産主義に対抗するための同盟国」でした。
だから日本の経済モデルが多少アメリカと違っていても、大目に見られていた部分があった。
終身雇用、系列取引、護送船団方式。市場原理からすれば非効率なんですよ。
でも冷戦中は「日本が共産圏にさえならなければよし」という話だったわけです。
冷戦が終わった瞬間、その猶予がなくなった。
ただ、正確には冷戦が終わる少し前から始まっていました。1985年、プラザ合意です。
当時アメリカは貿易赤字に苦しんでいた。
日本の自動車も家電も、アメリカ市場を席巻していた。
だからG5の会議で、円を強制的に切り上げることを決めた。
「合意」という名前がついていますけど、実態はアメリカが日本に「円を高くしろ」と要求した。
円は一気に上がりました。
1ドル240円台だったものが、2年後には120円台になったんですよ。
輸出で稼いでいた企業は大打撃を受けた。
その穴を埋めるために、日本は金融を緩和した。お金が余った。
そのお金が土地と株に流れ込んだ。これがバブルの正体なんですね。
プラザ合意がなければ、あのバブルはなかったかもしれないわけですよ。
そしてバブルは1991年に崩壊した。
崩壊後、日本に入ってきた処方箋が「グローバルスタンダード」という言葉でした。
日本型の経済システムが非効率だから停滞したのだ。グローバルスタンダードに合わせれば復活できる。そういう論理です。
でも少し立ち止まって考えてほしいんです。
「世界共通の基準」と言うけれど、そのルールは誰が書いたのか。
強者がルールを書いて、そのルールに「普遍的な思想」という名前をつけた。
グローバルスタンダードというのは、その名前の一つなんです。
終身雇用はおかしい。
女性も家に閉じこもっていないでどんどん働くべきだ。
日本は非効率で遅れている。
そういう言葉が次々と出てきた。
その処方箋に従って、1996年から98年にかけて橋本政権が金融ビッグバンを断行しました。
金融市場を一気に自由化した。外資が入りやすくなった。
でも同時に、それまで地域に根ざしていた信用金庫や、顔の見える融資の仕組みが「非効率」として削られていったわけですよ。
そしてボクが一番大きかったと思うのが、2004年の出来事です。
小泉政権が、製造業への労働者派遣を解禁しました。
それまで製造業の現場は正規雇用が原則だったんです。
工場で働くヒトは、その会社の社員だった。それが変わったわけです。
派遣という形で、ヒトを必要なときだけ使えるようになった。
いらなくなったら返せる。コストとして管理できる。
流動できるものが強い、という資本の論理を、ヒトに適用したわけです。
でも雇用の形が変わっただけじゃないんですよ。地域との繋がりが切れたんです。
会社の社員であれば、その地域に根ざす。
地元の店で買い物をする。地域の祭りに関わる。子どもを地元の学校に通わせる。
そういう「陸に根を張る」生き方と、雇用はセットだった。
派遣という形になった瞬間、その繋がりが切れやすくなった。
次の現場は別の県かもしれない。来年の契約があるかどうかも分からない。根を張れないんですよ。
同じ時期に、全国の商店街が急速に衰退していきました。
大型ショッピングモールの郊外出店が解禁されたのも、この頃です。
2000年の大規模小売店舗立地法ですね。
地元の八百屋、魚屋、豆腐屋、文房具屋。顔の見える商店が、次々と閉まっていった。
「安くて便利な方が消費者のためになる」という論理でした。
確かに安かった。確かに便利だった。
でも、ボクが子供の頃に豆腐屋さんが来ると、豆腐を買うだけじゃなかったんですよ。
「坊やはどうしてますか」「ご主人はどうですか」という会話があった。
スーパーより多少高くても、続いてほしいから買う。そういう関係があった。
魚屋さんも肉屋さんも漬け物屋さんも、みんなそうだった。
あれは、等価交換じゃなかったんです。
100円払って100円のものを受け取る。それはプラスマイナスゼロで、何も残らない。
でもあの商店街の買い物には、商品以外のものがついてきた。
顔を知っている。安否を気にしてもらえる。声をかけてもらえる。
その「豆腐を買う行為だけじゃない部分」が、効率化の名のもとに全部消えていったわけですよ。
効率的にしようとして、失われた30年と言われる時代を招いた。
その背景に、等価交換以外のもの——ヒトとヒトとの繋がり——が大きく失われたということがあるとボクは思っています。
MAMEHICOをやりながら、そういうものをどこかに残したいと思ってやってきた。その話の続きはまた次回。

何気ない言葉の中に、ふと立ち止まるきっかけがあります。
ぜひ一度、耳を傾けてみてください。







