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特集— エトワール★ヨシノは何者か?M=Hico / What is Etoile Yoshino?

05
The Deserter and the Crowd

「脱走兵と群衆」を目撃したか

嘘の上に、嘘を重ねる
M=Hico特集
一人音楽劇「脱走兵と群衆」公演チラシ

ヨシノには、歌だけでは語りきれない、もうひとつの舞台がある。

「脱走兵と群衆」。ヨシノが一人で演じる、音楽劇である。


舞台の上には、ヨシノひとり。物語の案内役になり、通信兵のミーリンになり、その義母になる。声と、身ぶりと、わずかな小道具で、一人が、何人にもなる。グランドピアノの生演奏がつき、席は45。休憩を含めて、二時間半。それだけの空間で、戦争の話を、たった一人でやりきる。


ワタシはこれを、客席で観た。そして、帰り道、困った。音楽ライターとして、書きようがないのだ。歌の出来を語る舞台ではない。かといって、演劇評の型にも、収まらない。


いちばん困ったのは、この舞台が、感動させようとしてこないことだった。ここで泣け、という照明も、音楽もない。場内が一斉に同じ気持ちになる、あの瞬間を、むしろ避けているように見える。観客は、それぞれ勝手な場所で、勝手に、何かを持ち帰る。隣の席のヒトとワタシは、たぶん、別の芝居を観ていた。

二つのシャンソンから

この物語は、二つの古いシャンソンから生まれた。「脱走兵」と「群衆」。どちらも、フランスでよく知られた名曲である。あらすじは、こうだ。

1960年代、東南アジアの戦地に、慰問団の歌手として派遣されたヨシノ。任務を終え、帰国目前だったが、ある夜の「ピアノ事件」をきっかけに、帰国の名簿から名前が消され、拠点に取り残される。現地の通信兵ミーリンと心を通わせるなかで、拠点が見捨てられる計画を知り、二人は脱走を決意。雨季の水路を使い、命がけで逃げのびる。だが、たどり着いたミーリンの故郷で、二人が目にしたのは、戦争の爪痕と、変わり果てた家族の姿だった。

もとになった「脱走兵」は、戦争に背を向けて逃げる男の歌である。

まわりの大勢は、その男を責める。臆病者だ、と。だが、ヨシノが惹かれたのは、その群衆のほうだった。責めている群れのなかにも、そっと目を伏せ、心のうちで男を逃がしてやりたいと願う者が、一人、二人と、まじっている。

ヒトは、責める側とかばう側に、きれいに分かれてはいない。同じ群衆のなかに、両方がいる。ヨシノは、その割り切れなさに、ヒトの美しさを見ている。

カフェで観て、コインを置く

この舞台には、ふつうの劇場にはない、奇妙なところが、もうひとつある。

観客が、食べながら観るのだ。

会場は、あくまでカフェである。だから、席には、MAMEHICOの弁当や、デザートの箱が運ばれてくる。客は、それを口に運びながら、戦争の話を観る。ほの暗い照明のなか、コーヒーの香りが漂い、弁当の蓋の音が、そっと鳴る。かしこまって観る舞台ではない。日々の延長で、暮らしの続きで、ふらりと観る。

なぜ、こんなことができるのか。答えは、単純だ。ここが、自前の店だからである。

借りた劇場では、こうはいかない。飲食は禁止、上演中の物音は御法度、退出も自由にならない。当たり前だ。他人の箱には、他人の決めた作法がある。ところが、この舞台は、自分の店でやっている。だから、作法も、自分で決められる。食べてもいい。途中で出てもいい。そのゆるさは、店を持っている者だけに許された、特権のようなものだ。

料金も、同じ理屈である。

鑑賞料は、無料だ。だが、まったくお金が動かないわけではない。会場には、「おうえんコイン」というものが、置かれている。払わなくてもいい。だが、心が動いたぶんだけ、払いたければ、払える。

貸し劇場では、まず、できない仕組みだろう。箱代がかかる以上、主催者は、入場料で、それを回収しなければならない。無料で、投げ銭で、というわけにはいかない。無料・投げ銭が成り立つのは、箱代を、自分の店の家賃として、すでに払っているからだ。興行として採算を合わせる必要が、そもそも、ない。

長く打ちつづけられるのも、同じ理由である。

この舞台は、一度きりの公演ではない。何度も、くり返し上演されている。ロングランだ。ふつう、これは難しい。劇場を借りての公演なら、日を重ねるほど、箱代がかさむ。客が入らない日が続けば、たちまち立ち行かなくなる。だから、貸し劇場の芝居は、短い期間に客を詰め込んで、切り上げる。ところが、この舞台は、そうしなくていい。自分の店で、自分たちのペースで、やりたいだけ、やれる。今日は客が少なくても、明日また打てばいい。一度観たヒトが、二度、三度と通えるのも、いつでもそこで、やっているからだ。

食べながら観られること。無料であること。長く打ちつづけられること。この三つは、ばらばらの工夫ではない。どれも、根はひとつ。自前の店を持っている、という一点から、生まれている。

こんなことがあった。その夜、予約もなしに、一人の女性が、ふらりと入ってきた。後ろのほうの席に、ぽつんと座る。はじめは、どこか、身がまえていた。肩に力が入り、こわばった横顔で、舞台を見ていた。

だが、ヨシノが歌い、語り、物語が進むにつれて、その表情が、少しずつ、ほどけていく。眉のあいだの力が抜け、肩が下がり、やがて、身を乗り出すようにして、舞台に見入っていた。

そして、佳境。ヨシノが、おうえんコインのかごを手に、客席をまわってきた。その女性のところへ、かごが差し出される。彼女は、コインを、がさっと、両手ですくった。そして、ためらいもせず、じゃらっと、かごに落とした。ひとつ、ふたつ、ではない。ありったけである。

無料だから、値打ちがない、のではない。無料だからこそ、値打ちを、客が、自分で決めることになる。店が値段を決めて突きつけるのではなく、客が、自分の感じたぶんを、置いて帰る。それが可能なのは、繰り返すが、ここが、採算を興行に頼らなくていい、自前の店だからだ。仕組みが、そうさせている。

おうえんコインを使ってその場で払う
食事もデザートもお弁当方式

もう一人の、出演者

さて、ここまで「一人芝居」と書いてきたが、正確ではない。

舞台の上には、もう一人いる。ピアノの、石川潤一である。

石川は、ヨシノにとって、いなくてはならない相棒だ。二人の付き合いは、古い。ヨシノがまだ、ゲーテ先生の音楽会の一登場人物だったころからだ。

ヨシノが銀座で独り立ちし、コロナのさなか、5枚のアルバムを毎年こしらえていたときも、ずっと石川とのコンビは変わらない。50曲すべての編曲を手がけたのも、石川である。井川が詞と曲をつくり、石川がそれをかたちにする。この二人三脚で、ヨシノの音楽は、ずっと成り立ってきた。

そして今回の「脱走兵と群衆」も、アレンジから、当日の伴走まで、すべて石川が担っている。

芝居のあいだ、石川のピアノは、鳴りやまない。場面が変わるたび、ヨシノの声の色が変わるたび、ピアノが、その傍らに寄り添う。台詞のあいだの、わずかな沈黙にも、音がそっと差し込まれる。ヨシノが何役も演じ分けられるのは、この石川のピアノが、舞台の底を、絶え間なく支えているからである。

歌の場面では、伴奏になる。芝居の場面では、映画音楽のように、情景を描く。一台のピアノが、劇伴にも、伴奏にもなる。ヨシノが一人で何役も生きるように、石川もまた、一台で、何役もこなしているのだ。

たった二人。声と、ピアノ。それだけで、二時間半の戦争を、立ち上げてしまう。長い付き合いの二人だからこその、あの、息の合いようである。

井川がヨシノを演じ、そのヨシノの一人芝居

さて、ここで、この舞台の、いちばん込み入った仕掛けについて書いておきたい。この芝居は、井川の一人芝居ではない。エトワール★ヨシノの、一人芝居である。

どういうことか。

ヨシノは、井川が演じる、銀髪の女あるじだ。そのヨシノが舞台に立ち、こんどは、若き日の自分を演じる。戦地を逃げのびた、娘のころの自分をである。

しかも、それだけではない。

舞台の上のヨシノは、若い自分だけではなく、物語の案内役、通信兵のミーリン、その義母と、次々に姿を変える。声も身ぶりも変えて、娘にも、兵士にも、その母にもなる。

つまり、二重、三重の入れ子なのだ。

とんでもないことを、しれっとやっている。井川は、嘘の上に、嘘を重ねている。ふつうなら、そんな面倒なことはしない。役者を何人か揃えて、素直に芝居を打てばいい。

だが、井川は、そうしない。というより、そうする気が、はなからなかったのだろう。これは、たくらみではない。遊びなのだ。

ヨシノという嘘を、どこまで転がせるか。井川は、面白がって、その嘘を、こねくり回している。何かを伝えたくて、この仕掛けにたどり着いたのではなく、仕掛けそのものを、面白がって作っているにすぎない。

子どもが、一人で何役もこなして、ひとり芝居に夢中になる。あれと、同じことをしている。

ところが、である。

ただ、面白がって嘘を積んでいくと、その積んだ嘘の隙間から、本物が、そっと覗くことがある。

戦争の話でありながら、この舞台が終始描いているのは、たった一人の女性が、どう生きのびるか、である。そしてこれは、遠い戦地の話であって、そうではない。いまを生きる人々の話に、そっくりそのまま、重なるのだ。

まわりの目を気にして、少しずつ、自分というものを見失っていく。おかしいと感じても、逃げ出す勇気までは、なかなか出ない。それどころか、これでいいのだ、これが自分の望んだことなのだ、と、いつのまにか、自分に言い聞かせている。頭の中で帳尻を、無理やり合わせて、受け入れてしまう。ヨシノが演じる戦地のミーリンも、そうだった。戦局が悪化しても、その場所に、とどまろうとする。

けれど、あるとき、逃げる、と決める。

決めた瞬間から、風向きが、変わりはじめる。それまで動かなかった群衆のなかから、一人、また一人と、そっと味方する者が現れる。声には出さない。ただ、目を伏せ、逃がしてやろうとする。ヨシノがこだわった、あの、群衆のなかのかばう者たちだ。

つまり、こういうことだ。一人でも、できることはある。みんながやらなくても、自分が先に一抜けすれば、なにかが動きだす。そして、一人でやりきると腹をくくった、まさにその者のまわりにだけ、静かに、手が差し伸べられる。たった一人、何人分もの役を生きるヨシノの姿は、そのまま、その考え方の、生きた見本になっている。

もちろん、井川は、そんな理屈を掲げて、この舞台を作ったのではない。ただ、嘘を面白がって、こねくり回していただけだ。ところが、その遊びの奥から、井川がこの20年、店をやりながら考えつづけてきたことが、知らず知らず、顔を出している。

一人でも、やれる。一人だから、続けられる。ここに、井川という書き手の、底の知れなさがある。

スタッフは、みな「ヨシノさん」と書く。誰も「井川さんの歌」とは書かない。では、外から来た客は、あの一人に、何を見たのか。次回、最終回。ワタシは、観たヒトたちの言葉を手がかりに、最後は、井川本人に、ヨシノの正体を、問いにいく。

MAMEHICO | ETOILE YOSHINO