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特集— エトワール★ヨシノは何者か?M=Hico / What is Etoile Yoshino?

06
Everyone's Yoshino

みんなのヨシノ

観たヒトの数だけ、ヨシノがいる
M=Hico特集
ヨシノとは、両極端のまんなか

そろそろ、ヨシノをまとめなくてはいけない。ここまで読んで、まだ、腑に落ちないヒトも、多いだろう。ヨシノとは、結局、何なのか。井川の分身なのか、別人なのか。正体は、いっこうに、掴めない。かく言うワタシも、同じだ。最後は、いちばんヨシノを知っているはずの、観たヒトたちに、聞いてみるほかない。

天才、と近くのヒトは言う

まず目についたのは、近くにいるスタッフの、褒め言葉の、常軌を逸した熱っぽさである。

神戸・御影の店を切り盛りする渡辺みゆきは、ヨシノのアルバムの一曲を、こう言った。「イントロを聴いただけで、天才か!って、しびれた」。天才。ずいぶん、大きな言葉だ。舞台の音響を担当する店長のシゲに至っては、公演の最中に、機材の前で、泣いていたという。「PAなのに、鼻たらして泣いてもうた。井川さんてホンマ天才ですやん、って、嗚咽してた」。

面白いのは、井川本人も、ワタシのような書き手も、「才能」だの「天才」だのという言葉を、いっさい、使っていないことだ。それを、いちばん近くにいるヒトたちが、勝手に、思わず、口走る。しびれた、と言い、嗚咽する。

長く伴奏してきた原幸子は、もう少し、冷静に、その難しさを言い当てる。「歌のなかに、短編小説が、まるまる一本、入ってるみたいなんです。それを、語れるかどうか。あれは、ヨシノを演じる井川さんにしか、できません」。

かつらをかぶって、青いドレスを着れば、ヨシノになる。ワタシは、取材の前、そう高をくくっていた。カフェの店主の、おふざけだろう、と。だが、近くで見てきたヒトたちの言葉は、そろって、それを、否定する。おふざけの外見の奥に、地道なことを重ねた者にしか届かない、確かな何かがある。

では、いったい、その何かとは、何なのか。

昨日の井川と、今日のヨシノ

手がかりは、井川と、ヨシノの、落差にあった。

二日つづけて、両方を見た、あるヒトが、こう言った。「昨日のヨシノさんと、今日の井川さんが、どうしても、同じヒトだとは、思えないんです」。優しく甘い、それでいて、力強い歌声。男でも女でもない、圧巻の姿。一気に、引き込まれた。ところが、翌日のトークに現れたのは、拍子抜けするほど、穏やかな、ふつうの中年男だった。同じ顔、同じ身体。それなのに、別人が、そこにいる。演じ手が一人だと、いちばんよく知っているはずのスタッフでさえ、「二人いる」と言う。

ここに、正体の、半分が、見えている。ヨシノは、井川が、女装で「もっと自分になった」姿では、ないのだ。逆である。かつらをかぶった瞬間、ふだんの、そつない店主の井川が、引っ込む。かわりに、井川には言えないことを平気で言い、井川にはできないことを平気でやる、別の誰かが、立ち現れる。

だから、井川は、言い張る。「ボクはヨシノじゃないよ。それは、ほんとにそう」。

かつらは、井川を、いっそう井川らしくする道具ではない。井川が、井川であることを、しばし、やめるための、仕掛けなのだ。

では、井川は、なぜ、井川であることを、やめようとするのか。それを解く鍵は、井川という男の、立ち位置に、あるようだった。

井川は、飄々としている。作りごとや、押しつけがましさを、何より嫌う。売り込まず、頑張らず、水のように、低いほうへ流れていく。

だが、その飄々は、何もない、ぬるい飄々では、ないのだ。

井川の内には、怒りが、ある。世の中が、金、金と一本槍になっていくこと。子どもが、道具のように扱われること。その一方で、井川は、弱って、うつむいたヒトに、そっと、寄り添いもする。怒りと、寄り添い。突き放す手と、抱きしめる手。ふつうなら、どちらかに、傾くものだ。井川は、その、どちらにも、傾かない。怒ると、寄り添うの、ちょうど、中間に、飄々と、立っている。

飄々とは、何もしないこと、では、なかった。相反する二つを、両手に抱えて、その真ん中で、平静を、保っていること。それが、井川の、飄々なのだ。

「ヨシノ友の会」— 曲を聴いて、感じたことを語り合う

ただ、真ん中に、立つこと

井川は、何かを、したいわけでは、ないのだと思う。うつむいたヒトを、救ってやりたい。世の中を、変えてやりたい。そういう、前のめりな意志は、この男には、あまり、感じられない。ただ、いる。気がつけば、そこに、立っている。低いところへ流れ着いて、ただ、いる。

厄介なのは、その立ち位置が、いつも、真ん中だということだ。

うつむいたヒトの前でも、そうだ。そのままでいい、と抱きしめる側にも、しっかりしろ、と突き放す側にも、井川は、はっきりとは、付かない。抱きしめる母と、叱る父。ふつうは、どちらかに、寄る。寄れば、旗色が、はっきりして、楽になる。だが、井川は、寄らない。両方を、抱えたまま、真ん中に、いる。

真ん中は、居心地が、悪い。どちらの側からも、はっきりしろ、と、責められる。優しくするなら、徹底して優しくしろ。厳しくするなら、最後まで厳しくしろ。世の中は、どちらか一方を、選べと、迫ってくる。その、どちらも選ばず、相反する二つを、両手に抱えたまま、真ん中に立ちつづけるのは、いちばん、しんどい場所に、身を置くことだ。

井川が抱えている、両立しないものは、まだ、ある。世の中の大きな動きを、平気で語りながら、目の前の客の、今日の顔色を、こまやかに、気にかける。マクロと、ミクロ。手作りの温かみを、何より大事にしながら、店の仕組みは、自分で、デジタルに組んでしまう。アナログと、デジタル。とうに時代遅れの古い歌を、大切に歌いながら、これからの世の中を、語りだす。過去と、未来。どれも、ふつうなら、どちらかに、傾く。井川は、傾かない。相反する二つを、そのまま、抱えている。だから、いつも、真ん中に、いる。

この、真ん中に、両立しないものを抱えて立つ、という井川の性分が、一人の女の姿になったものが、ヨシノなのだ。

男でありながら、女。素人でありながら、玄人。おふざけでありながら、本気。ヨシノは、そのどちらか、ではない。そのどちらも、である。そして、うつむいたヒトの前では、抱きしめる母と、叱る父を、一人で、引き受ける。そのままでいい、と抱きしめると同時に、いつまでも泣いてないで、と突き放す。冒頭で、客を叱っていた、あれだ。

考えてみれば、いまの世の中に、溢れているのは、抱きしめるほうの声ばかりだ。そのままでいい。頑張らなくていい。優しい言葉なら、いくらでも、ある。だが、それだけでは、うつむいたヒトは、うつむいたまま、動けない。立ち上がるには、もう一方が、要る。いい加減、顔を上げろ、自分の足で歩け、と、背中を、叩く声だ。その、叩く声が、いま、いちばん、足りていない。

ヨシノに叱られたヒトが、なぜか、嬉しそうにしているのを、思い出してほしい。あれは、突き放されると同時に、抱きしめられる、という、めったにない感覚に、飢えているからだ。どちらか一方に偏った世の中が、失ってしまった、あの真ん中の感覚を、ヨシノは、たった一人で、引き受けている。

ところが、ここに、困った問題がある。その両手を、素の井川のままでは、差し出せないのだ。

中年の男が、うつむいて泣いている誰かに近づいて、そばにいるよ、と言ったら、どうだろう。相手は、身構える。下心を、疑われる。かといって、いい加減、顔を上げろ、と叱れば、今度は、うるさい、何様のつもりだ、と、煙たがられる。優しくすれば、裏を勘ぐられ、厳しくすれば、疎ましがられる。素の中年男がやると、どちらの手も、うまく、届かない。

井川は、たぶん、それを、よく、わかっている。だから、ヨシノなのだ。

ヨシノだから、抱きしめても、下心に見えない。ヨシノだから、叱っても、押しつけにならない。素の中年男が言えば、何様だ、と反発されることも、インチキ臭い銀髪の女あるじが言えば、すっと、胸に入る。あの、叱られて嬉しそうな顔は、そうやって、生まれる。ヨシノという安全な姿が、井川の両手を——抱きしめる手も、突き放す手も——角の立たないものに、変えるのだ。

これが、ヨシノの、正体だろうとワタシは思う。素の井川が差し出すと、うさんくさくなる、抱きしめと、突き放し。その両方が、ヨシノの姿を借りると、安全な、ひとつのファンタジーに、変わる。ヨシノは、井川の両手を、気味悪がられずに、届けるための、装置なのである。

戦うための武器ではない。どちらにも偏らない、あの真ん中を、そっと、差し出すための、仮の姿なのだ。

長年一緒にいるスタッフの日野は、こう書いている。「実際に足を運んでくださった方の多くが、ヨシノさんを『すごいものを観た』と、どこか圧倒されたような表情で、帰っていかれます。銀座のカフェの片隅で、こんな熱量の物語を紡いでいるヒトがいる。舞台の上には、井川さんひとり。でも、そこには、20年かけて積み上げてきたものが、ぎゅーっと凝縮されているんです。ヨシノは、ぜんぶ一人で引き受けてる井川さんそのもの。生まれるべくして、生まれたものです」。かつらをかぶれば、誰でもなれる、というものでは、ないのだ。

エトワール★ヨシノとは、何者か。

取材の終わりに、ずっと引っかかっていたことを、井川自身にぶつけてみた。

——井川さんは、誰かに、寄り添ってあげたいんですか。

「寄り添うだけじゃ、ないんだけどね。ボクだと胡散臭くみられることも、ヨシノだと、角が立たない。優しくもできるし、叱れもする。ヨシノだからね」

そういうものか、と、いったんは、うなずいた。だが、店を出て、ひとりになって、考えるうちに、その答えの、奥が、見えてきた気がした。

胡散臭いのは、井川では、ない。胡散臭く感じ、疎ましく感じてしまう、こちらの、目のほうなのだ。

いつからか、ワタシたちは、他人が差し出すものを、まっすぐには、受け取れなくなっている。見返りもなく、誰かがそばに立つ。すると、裏があるんじゃないか、と勘ぐる。見返りもなく、誰かが本気で叱る。すると、うるさい、何様だ、と煙たがる。優しさは、胡散臭がり、厳しさは、疎ましがる。中年の男がやるなら、なおさらだ。井川が、素のままで、優しくも、厳しくもできないのは、井川が、胡散臭いからではない。ワタシたちの世界が、無償の優しさを胡散臭がり、無償の叱りを疎ましがる、そういう世界に、なってしまっているからだ。

ヨシノは、その、こじれた世界に、抜け道を、用意した。

かつらをかぶり、ドレスを着る。誰が見ても、作りものだ。中年男の女装。嘘だと、わかる。ヒトは、その嘘に、安心する。本物の優しさや、本気の叱りには、身構える。裏を、勘ぐる。だが、はじめから嘘だと断ってある姿から差し出されるものには、警戒が、いらない。これは、ファンタジーですよ、と、かつらが、口紅が、断ってくれている。だから、ヒトは、安心して、抱きしめられ、安心して、叱られる。

おかしなことだ。ワタシたちは、本物なら、疑うのに、嘘の姿からになら、心を、開く。

だが、ここに、どんでん返しがある。

その、嘘の優しさが、ヒトを、本当に、救ってしまうのだ。神戸で、初めてヨシノを観た、あるヒトは、こう漏らした。「自分の中にあるのに、言葉にできなかったことが、あの歌詞に、なっている」。嘘の女の歌から、自分でも掴めずにいた、本当のものを、受け取っている。ヨシノは、嘘なのに、いや、嘘だからこそ、本物を、届けているのだ。

井川は、ずっと、言い張ってきた。ボクはヨシノじゃない、と。それは、嘘だ、と。だが、井川にとって、ヨシノは、嘘ではなく、嘘というかたちを借りた、いちばんの、本音なのかもしれない。

——ひとつ、聞いていいですか。いつまでヨシノを続けるおつもりですか。

井川は、少し、黙った。

「時代が変われば、やめる時が来るだろう。いまのような時代が続く限り、ヨシノは、存在する。でも、ヨシノが要らなくなる時代というものを、目指さないといけないね」

かつらを外せば、井川啓央に戻る。ヨシノは、どこにも、存在しなくなる。

けれど、と思う。

ヨシノが要らなくなる時代とは、優しさが胡散臭がられず、厳しさが疎ましがられない世界のことだ。誰かがそばに立ってくれても、裏を勘ぐらずに済み、誰かが本気で叱ってくれても、うるさがらずに、ありがたく聞ける世界。そんな日が来たら、井川は、かつらを、脱ぐのだろうか。

だが、その日は、まだ、来ない。

だから、今夜も、ヨシノは、歌う。飄々としたひとりの男が生み出した、たった一人の優しさは、もう、彼のものではない。観たヒトたちのなかで、それぞれのヨシノが、誰かの隣で、静かに、歌っている。

その日が、来なくてもいいように。その日が、いつか、来るように。

MAMEHICO | ETOILE YOSHINO