紫陽花ケーキ、梅雨明けまで!
神戸は梅雨明けましたね、東京もそろそろかな?
大勢では、集まれない。増原を招いて打つゲーテも、客席を埋める興行も、できなくなった。歌い手が、歌う相手を失ったのである。ところが井川は、その八方塞がりを、思わぬ方へ転がしていく。ヨシノが一人で立ち、歌を録りはじめる。毎年1枚、気がつけば、5枚。50曲。
腰を落ち着けて、さあこれから、という矢先だった。コロナが来た。
やっとみつけた銀座のコンサートホールで、ゲーテ先生の音楽会を再開した、そのすぐあとである。大勢では、集まれない。増原を招き、稽古を重ね、客席をぎっしり埋めて打つゲーテは、できなくなった。看板を、また下ろさなければならないのか。
ところが、ここで、ヨシノが登場する。
ゲーテはできない。だが、ヨシノなら、できる。理由は、身も蓋もないほど単純だ。ヨシノは、井川一人で立つ。増原という共演者の予定を押さえる必要も、大勢で稽古する必要もない。井川の予定さえ空けば、いつでも打てる。歌い、語り、客席とやりとりし、二時間近くを、たった一人で持たせる。誰も巻き込まず、密にもならず、灯を消さずにいられる。
こうして、皮肉なことが起きた。コロナは、ゲーテを止めた一方で、ヨシノの出番を、ぐっと増やしたのである。
「ゲーテを続けられていたら、ヨシノがこんなふうにやることは、なかったと思う」と井川は言う。
もともとは、ゲーテの脇役だった。ゲーテを続けるために見つけた、銀座の舞台だった。ところが、その脇役が、コロナという思わぬ追い風を受けて、いつのまにか、自分の名前だけで客を呼ぶようになっていく。渋谷を追われ、店を看取り、疫病をくぐって、ヨシノは、とうとう一人で舞台に立つ歌手になった。
そして、その一人きりの舞台から、次の一手が生まれる。客を店に呼べないなら、こちらから歌を届ければいい。銀座の片隅で、ヨシノは、アルバム作りを始めた。

2020年、1枚目「モチーフ」が生まれた。きっかけは単純だった。店に客を呼べない。ならば、歌だけでも録っておこう。それだけのことだった。井川は当時を、こう振り返る。
「正直、これ1枚で終わりだと思ってたんだよね。コロナが落ち着けば、また店で歌えばいい。成り行きで録っただけ」
成り行き、というのが、いかにも井川らしい。とんかつ屋のおいちゃんが消えたときも、成り行きで揚げ場に立った。映画を作ったのも、上映する場所がなくて小屋を建てたのも、成り行きだった。目の前で起きたことに、逆らわない。そしてその成り行きは、いつも、思わぬところへ流れ着く。
コロナ禍は、長く続いた。翌年も、またアルバムを作った。2021年「ナーハム」。舞台でおなじみの「カモメのジュテーム」が音源になったのは、この一枚だ。以降、2022年「ウィルトゥース」、2023年「シュバラ」、2024年「ダイモニオン」。毎年、判で押したように、1枚。
「なんとなく面白くなってきてね。10枚、100曲は作ろう、って思ったし、作れる気もしてた」と井川は笑う。
面白いのは、タイトルである。ラテン語やサンスクリットの、いかめしい横文字が並ぶ。ところが中身は、「なんだかなの唄」「ダンボールの唄」「BBQ」。大仰な看板を掲げて、歌はヒトを食っている。この落差が、そのままヨシノなのだ。
計画して頂上を目指す。井川のやり方は、その逆である。
「水みたいでいたい」と井川は言う。「上善は水の如し。水は逆らわないで、低いほうへ流れてく。ボクのやってきたことは、だいたいそれ」
上善は水の如し。老子の言葉だ。最上の善は、水のようなものだ、という考え方である。水は、自分から形を決めない。器があれば器の形になり、坂があれば低いほうへ流れる。逆らわず、争わず、置かれた場所のなりゆきに従う。それでいて、岩をも削り、大地を潤す。みなが嫌う低いところへ、静かに流れ着く。
井川のやってきたことは、これに近い。そのつど、目の前の低いところへ、逆らわずに流れていく。争って勝ち取るのではなく、成り行きに和して、いつのまにか、なにかを成している。日本人が古くから大切にしてきた「和」の心も、根はここにあるのだろう。
50曲のアルバムも、そうやってできた。作ろうと意気込んだのではない。流れ着いた先で、できることをしていたら、水が器を満たすように、50曲が溜まっていた。
詞を書き、曲をつけ、歌う。そのすべてを、井川が一人で背負っている。編曲は石川潤一が手がけるが、詞と曲は、カバーを除けば、ほぼ50曲すべて井川の手によるものだ。たいそうな仕事である。だが当の本人に、やり遂げた感覚は、まるでない。
「歯を食いしばって作ったわけじゃないんだよね。ぼんやり作ってたら、いつのまにか50曲になってた。努力した覚えもないのに、さ。我ながら、おかしな話だよね」
井川は、努力という言葉が、あまり好きではないという。今日を我慢して、未来のために積み立てる。あの、歯を食いしばる感じが、性に合わない。だが取材していると、これはいい加減さの話ではない気がしてくる。むしろ逆だ。気合を入れて始めたことほど、途中で息切れする。なんとなく始めて、なんとなく続いたことのほうが、気づけば、とんでもない量になっている。水が、力まずに海へたどり着くように。

歌を録りためていた、そのコロナ禍のあいだに、渋谷では、静かに事が進んでいた。
コロナは、渋谷にとどめを刺したのである。すでに宇田川町を手放していた井川は、残った公園通りの店も、閉めざるをえなくなった。これで、渋谷の店は、すべてなくなる。10年以上、井川が主戦場としてきた街である。とんかつ屋も、映画館も、ヨシノを生んだ小屋も、みんな、あの街にあった。その渋谷から、ついに、離れることになった。
流れ着く先を、失ったのである。
さて、どこへ流れるか。東京は、もう難しい。井川は、そう考えた。ならば、いっそ、関西はどうだろう。東京にこだわる理由も、もうない。まったく違う土地で、一からやり直すほうがいい。そう思い立って、井川は、関西へ足を運んでみることにした。
歩いてみると、心が動いた。なかでも、奈良で見つけた一軒家に、井川は惹かれた。古い家である。渋谷のようなせわしない街とは、時間の流れがまるで違う。ここで、ゆっくり過ごせる店をやりたい。井川は、そう決めかけていた。話も、具体的に進みはじめていた。
ところが、である。
いよいよ、という段になって、奈良の一軒家の話は、頓挫してしまう。当てにしていた家は、手に入らなくなった。流れが、行き止まったのである。
ところが、そのあとに、思いがけない話が、3つ、ほとんど同時に舞い込んできた。
ひとつ目は、神戸だった。
一組の夫婦が、井川を訪ねてきたのである。渡辺しげと、みゆき。もともと二人は、音楽の道で暮らしを立てていた。みゆきはカラオケ教室の先生で、地元のヒトに歌を教えていた。しげは、その教室を営む会社の管理職。夫婦そろって、音楽のある毎日を送っていた。
ところが、コロナが、それを一変させる。カラオケは、大声を出す、密になる、と、いちばん槍玉に挙げられた場所のひとつだった。生徒は次々に離れ、教室は立ち行かなくなる。しげも職を変え、夫婦は、八方塞がりになった。そんなとき、みゆきは、コロナ禍でも毎日店を開けつづけている、奇妙なカフェのことを知った。MAMEHICOである。藁にもすがる思いで、井川に会いに行った。
会って愚痴をこぼすみゆきを、井川は、慰めなかった。こんなときこそ、それでも楽しく生きていかなきゃだめじゃないか、と、むしろ叱った。その一言で、夫婦は、自分たちで店をやる決意をする。奈良の一軒家は流れたが、この夫婦との縁は、残った。関西の拠点は、奈良ではなく、この二人のいる神戸に、落ち着くことになる。
2つ目は、群馬の桐生。古い一軒家がある。のちに紫香邸と名づけられる、趣のある家だ。その持ち主が、家を手放すことになり、井川に、買わないか、と声がかかった。買い手がなければ壊す計画もあるという。井川は、買うと即決した。奈良で叶わなかった「一軒家でやる店」が、こんどは、まったく縁のなかった群馬で、叶うことになる。
そして3つ目が、銀座だ。
こちらも、少し、話の積み重ねがある。ヨシノがライブをやらせてもらっていた、あのコンサートホール。コロナのさなか、この箱は、借り手を失っていた。こんなご時世に催しなど、と誰も手を挙げない。オーナーも、困り果てていた。
そこで井川は、そのホールで、演りつづけたのである。演劇を打った。音楽フェスを打った。ヨシノのライブも、幾度となくやった。こんなときに不謹慎だ、という声もあった。足を運ぶヒトも、決して多くはなかった。それでも、井川は、誰も借りないそのホールで、幕を上げつづけた。困っているオーナーの隣に、ただ、立っていた。
その姿を、オーナーは、見ていたのだろう。コロナが落ち着いてきたころ、向こうから、井川に、申し出があった。この場所を、いっそMAMEHICOにしてみないか、と。
「びっくりしたよね」と井川は笑う。「こっちは、間借りでライブをやらせてもらってる立場だからさ。それが、店にしないか、って言われて」
手を差し伸べられたのは、井川が先に、手を差し伸べていたからだった。とんかつ屋のおいちゃんの店を作ったときも、そうだった。困っているヒトの隣に立つ。それが、めぐりめぐって、返ってくる。
こうして、妙なことが起きた。渋谷の店が、次々と減っていく。その一方で、神戸、桐生、銀座と、新しい店が、ほとんど同時に、三つも増えることになったのである。減った渋谷を、増えた三店が、埋めるように。
「これも、たまたまなんだよね」と井川は言う。
関西へ動いた。奈良で行き止まった。夫婦と出会った。桐生から、銀座から、声がかかった。どれひとつ、井川が計画したものではない。当てにしていた奈良は消え、当てにもしていなかった神戸の夫婦、桐生の家、銀座のホールが、向こうからやって来た。とんかつの穴を埋めるために立った揚げ場が、映画館になったときと、同じである。求めていたものは失い、求めていなかったもののほうが、失った穴を埋めるように、向こうからやって来る。
そして、その銀座の店で、ヨシノは、いまも歌いつづけている。録りためた50曲を引っさげて。
思えば、銀座のMAMEHICOは、ヨシノが連れてきてくれたようなものだった。あのホールで幕を上げつづけたのは、ほかでもないヨシノである。その姿があったから、オーナーは声をかけてくれた。歌う場所が、いつのまにか、店になっていた。
そのヨシノには、歌だけでは語りきれない、もうひとつの舞台がある。一人で、何人もの人物を演じ分ける。休憩を含めて、2時間半。銀座の45席で、たった一人、戦争の話を演じきる。演目の名は、「脱走兵と群衆」。次に訪ねたのは、その舞台だった。
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