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梅雨を歩く│2025年6月

森林植物園へ撮影に

こんにちは。MAMEHICO神戸・御影店長のシゲです。

「暦の手帖」の第一作目は、僕にとって、なかなか思い出深い作品です。いい意味ではなく、最初から盛大にやらかした作品として。

神戸でも、その季節の風景や花、町に暮らすひとたちを映像に残していく「暦の手帖」を始めることになりました。MAMEHICO代表の井川さんが監督と台本、編集を担当し、僕が神戸で撮影する。そんな役割分担でスタートしました。

井川さんは、かつてテレビ番組の制作会社を経営し、自らドキュメンタリーなども手がけてきた、映像制作のプロです。一方の僕は、4Kのカメラを持って、きれいなものをきれいに撮れば、なんとか一本の作品になるだろうと思っていました。

第一回の題材は、六月の紫陽花です。普段からMAMEHICO神戸・御影に季節の花を生けてくださっている、「紫水」の一谷美智子さんと、神戸市立森林植物園へ撮影に行きました。

この日は、朝から大雨でした。紫陽花にはよく似合う天気ですが、撮影する側としては、それどころではありません。傘を差しながらカメラを構え、とにかく機材だけは濡らさないように、一谷さんのあとを追いかけました。足元は水浸し。服も靴も、撮影が終わるころには、とんでもなくびしょ濡れです。

良い映像が撮れた

一谷さんも、そんな雨のなかを長時間歩き、紫陽花について話しながら、ずいぶん頑張ってくださいました。雨に濡れた葉は緑が濃くなり、青や紫の紫陽花もきれいに映ります。大雨のなかでの撮影は大変でしたが、終わったときには、かなりの達成感がありました。

「今日は大変やったけど、なかなかいい映像が撮れたんじゃないか」

そんな手応えを感じながら、撮影した素材を井川さんへ送りました。そして、完全にダメ出しされました。

見返してみると、たしかに紫陽花しか映っていません。紫陽花のアップ。紫陽花を眺める一谷さん。「きれいですね」と話す場面。そして、また別の紫陽花のアップ。

僕としては、大雨のなかで一つひとつ違う紫陽花を必死に撮っていたつもりです。けれど、作品として見れば、だいたい同じ絵です。撮影後に感じていた、あの達成感は何だったのでしょう。

台本は事前にもらっていましたが、その言葉にどんな映像を重ねるのか、場面をどう展開させるのか、編集のために何を撮っておかなければいけないのか。そんなことは、まるで分かっていませんでした。

写真なら、きれいな一枚が撮れれば成立することがあります。でも動画は、きれいなカットが何枚あっても、それだけでは話が進まない。今なら当たり前に分かることですが、このときの僕は、そんなことすら分かっていませんでした。

たったの2分42秒

一谷さんは雨のなか、紫陽花について話し、園内を歩き、MAMEHICOへ戻って花を生けるところまで、いろいろと動いてくれています。それなのに、完成した動画は2分42秒。

短く研ぎ澄ました作品、ということではありません。単純に、使える映像が足りなかったのです。一谷さん、本当にすみませんでした。

そんな撮影のなかで、一谷さんが紫陽花の中心を指し、「ここが本当の花です」と教えてくれました。僕たちが花びらだと思って見ているところは、実は萼片が変化したもの。本当の花は、その中央に小さく咲いています。

毎年紫陽花を見て、店にも飾り、紫陽花ケーキまで販売しているのに、僕は知りませんでした。知らんかったんかい、という話です。

けれど、撮影でも同じことをしていたのだと思います。僕は、分かりやすくてきれいな紫陽花ばかりを追いかけて、その場面の中心に何があるのかを見ていませんでした。

一谷さんが、どんなふうに花を見ているのか。雨の神戸と、店に生けられた紫陽花がどうつながっているのか。その場面が、一本の作品のなかでどんな役割を持つのか。花の中心にある小さな部分を見落としていたように、映像でも大事なところを見落としていました。

動画には、星野富弘さんの詩画「紫陽花」も登場します。雨が降り、山は霧に隠れ、家のなかでは特別なことが起こらない。それでも、いつかそんな一日を懐かしく思い出すかもしれない、という詩です。

当たり前に見える景色を伝える

当時の僕は、映像にするなら何か特別なものを撮らなければいけないと思っていました。けれど、「暦の手帖」で残したいのは、珍しい出来事ばかりではありません。雨が降っていること、その季節に花が咲いていること、誰かが店で花を生けていること。

今は当たり前に見える景色を、どう見て、どう残すのか。それが、「暦の手帖」でやりたいことなのだと、撮影を重ねるなかで少しずつ分かってきました。

動画の後半で、一谷さんは「花をアレンジするのではなく、花を生かすお手伝いをしたい」と話しています。花を自分の思う形に整えるのではなく、その花が自然のなかでどんなふうに咲いていたのかを見て、そのよさを生かす。

これは、映像づくりにも通じる話だと思います。撮り手が自分の撮りたいものだけを撮るのではなく、目の前にいるひとが何を感じ、何を伝えようとしているのかを見る。そのひとや場所がもともと持っているものを、映像のなかでどう生かすのかを考える。第一作目の僕には、その視点がまったく足りませんでした。

井川さんが乗り込んでくる

ということで、第二作目からは、監督の井川さんが東京から神戸まで撮影に来ることになります。遠路はるばる、監督本人がわざわざ来ることになった理由は、言うまでもありません。

僕だけに任せておくと、また同じ花ばかり撮ってくるからです(笑)。

第一作目は、完成度だけを見れば反省点の多い作品です。けれど、「きれいな映像を撮ること」と「一本の作品をつくること」は違う。そのことを、僕が初めて知った大事な一本でもあります。

紫陽花の本当の花を知ったこと。一谷さんの花への向き合い方を知ったこと。そして、自分が映像のことを何も分かっていなかったと知ったこと。

大雨のなか、びしょ濡れになって撮った二分半。

「暦の手帖」と僕たちの映像づくりは、ここから始まりました。