川崎、横浜で育ったボクは、
雑木林で遊ぶのがとても好きな子供でした。
明るく、整然と整備された林が子供の頃は、少し残っていて、
その光景はとても美しかったのを覚えています。
けれどいまはもう、子供の頃に見た雑木林は、
どこにも見当たらなくなってしまいました。
淋しいなと思っていたところに、
国木田独歩の『武蔵野』を読みました。
明治に書かれた短編集です。
その一遍に、雑木林の記述がありました。
「ずっとずっとその昔、武蔵野は
広大なすすきの原っぱで、さらに照葉樹の茂る森だった」
「しかし明治のいまは、どうだろう。
雑木林があちこちに点在している」
「ひとつの家の周囲は畑であり、その周りには雑木林。
農家は点在し、林や畑は無秩序に混在している」
と書かれている。
雑木林とは、ナラやコナラ、クヌギといった類いが
照葉樹と混在している人工の林です。
ああ、これこそが。ボクの知っている雑木林ではないか。
なぜ西東京に雑木林が多いのか、調べてみた。
中世の武蔵野は、広大なススキの原野で、
月見の名所として知られていたそうです。
いくつも和歌が詠まれています。
その後、長年にわたる野焼き、焼畑農業、家畜の放牧などによって、
ススキの原野はゆっくりと照葉樹林に変わっていきました。
照葉樹林とは冬に葉を落とさない木々の林で、
暗く鬱蒼としていて、子供の記憶では怖かった記憶があります。
それが江戸時代。武蔵野にあった照葉樹林を
庶民は尽く落葉広葉樹林に変えていった。なぜか。
というのも、エネルギーとして薪や炭が欲しかったからです。
ナラは薪や炭の材料です。
人々は照葉樹を伐採し、せっせとナラを植えました。
ひとサイクル12年で伐採をし、薪にした。
切り株からは3~4年もすると、ヒコバエが生え、
そのうちのいくつかを残して、また12年。
このサイクルで人々は、エネルギーを上手にリサイクルした。
さらに雑木林は、薪のためだけじゃなかった。
落ち葉はクズ、それを集めて採取することを
クズハキと呼んだのは、堆肥にするためです。
クズハキカゴに落ち葉を詰め、
牛車や大八車で家まで運び、庭に積み上げる。
それだけじゃ堆肥にならないので、
下肥や風呂の残り湯などを掛けて腐らせ堆肥を作ったのです。
なぜ堆肥が必要だったのか。
それは関東の西側が関東ローム層が広がる土地で、
農業に適していなかったからです。
火山灰はリンの吸収が悪く、作物が育ちにくい。
だから食料を確保するために、徳川は土の改良を手掛けたんです。
下肥を奨励したのもそのためですし、
落ち葉を堆肥にすることも、関東ローム層で作物を作るため必然だった。
こうして江戸時代の武蔵野の庶民は、
暮らしのなかに雑木林を取り込み生活していたのです。
国分寺にクルミドコーヒーというカフェがあります。
ボクが頼まれて15年ほど前に作ったお店です。
さて、なぜ「クルミ」と名付けたか?
それは武蔵野の雑木林がヒントになっています。
西国分寺の駅前のお店のそのすぐ裏手に、
古い雑木林が当時は残っていたんです。
影山くんに連れられて見に行った記憶があります。
「かつてこの西国分寺にも雑木林が点在していたんです。
そこには虫や鳥、水や土があり、ここに住む人々は
雑木林に集まりコミュニティを作って生活していた。
ところが今はもうその面影すら無い。
だからこそ、このカフェに武蔵野の面影を遺したい」
それで店名は「どんぐり珈琲」か
「クルミドコーヒー」か迷って、クルミにした。
武蔵野の人々が雑木林とともに暮らしていたその思いを、
いまクルミドコーヒーは大きく受け継いでいるんです。
さらに。江戸、元禄期のはなし。
武蔵野台地の一地域、埼玉県入間郡三芳町は、
三富(さんとめ)新田として開拓された歴史があるんです。
川越藩に推奨された「武蔵野の落ち葉堆肥農法」は
ここで生まれたとされています。
そしてその後300年のいまも僅かですが続いていて、
去年、世界農業遺産にも認定されたほどです。
その三芳町と言えば、ボクが去年作った「空水茶屋」のすぐそばです。
「空水茶屋」を地元で代々農業を継ぐ島田さんに頼まれたとき、
「農業は単なる野菜の栽培をすればいいというのではなく、
地域の自然を守り、コミュニティの中心を担うものでありたい。
その思いをカフェとして体現したい」
とおっしゃっていました。
時代が大きく変わり、景色も生活様式も大きく変わっているけれど、
昔の人々の思いはボクたちの中に、僅かだけど残っている。
ボクたちの未来とは「懐かしい未来」なのだと思う。