しがらみは面倒です。
見知った顔ばかりの空間。深い関係を持つと、途端に期待されてうっとうしい。
会話の義務、愛想笑いの義務、誘われて断る気まずさ。そういうものが、いちいち発生してくる。
それに比べれば、都会のカフェはなんとも心地よい。
誰もが気軽に入れて、誰に縛られることもない。
人間関係を持ち込まれることもなければ、「昨日のあれ、どうなった?」なんて干渉もされない。
そういう自由さ、匿名さが、都会のカフェの魅力であり、心地よさだと、──ボクも思います。
だけど。
ボクは、MAMEHICOを「実名」の関係性で築かれたカフェ──そっちに舵を切りたいと常々思っているんです。
顔と名前のわかる実名のヒトたちとの、責任ある自由、心地よさ、干渉はするけど監視はしない関係。
そんなカフェがボクの目指すところです。
どうしてそう思うのか?
ボクは、現代の日本人の多くは「寂しい病」という重度の病にかかっていると思っているからです。
原因は複数ありますが、みんな心のどこかに、ぽっかりと穴が空いてしまっているんじゃないかと。
その穴を埋めるために、誰かに褒めてもらいたい、認めてもらいたい、かまってほしいという気持ちが、コップいっぱいに、いまにもこぼれそうに溜まっている状態。
それは、ふとした瞬間にこぼれてしまう。
「自分を見ろ」って叫んでしまう。
「寂しい病」はそれにかかっていると悟られることを極度に嫌がります。
だからそうではないフリをしてしまう。よって無表情になる。
我慢してるけど、それが我慢とも思わなくなる。
そうやって「病」は深まるばかり。
ボクは、この「寂しい病」は、日本社会の根幹を揺るがす大きな問題になる、なっているという認識です。
とても危機感を感じています。早急に、なんとかすべきと思っています。
でもその多くは幼少期に原因があるんです。
「寂しい病」は放っておけば、ヒトはどんどん攻撃的、暴力的になっていく。
誰かを論破したくなり、見知らぬ他人を、それだけで「敵」とみなすようになる。
そんな社会でカフェをやるということ。
不特定多数に、自分たちの空間を開示するということ。
匿名は「寂しい病」を無自覚に刺激するものだと思うんです。
だから、ボクはいやなわけ。
匿名だから見えない相手に攻撃的になれる。
匿名だから暴言が吐ける。
匿名だから孤独のはけ口として誰かを叩ける。
ボクたちのMAMEHICOを匿名の誰かによって壊されれば──それはとてもつらい体験となり、もう誰もオープンで自由なものは望まなくなるでしょう。それが嫌なのです。
いわゆる「コモンズの悲劇」です。
誰もが無責任でいられる場所では、誰かがルールを破るかもしれない。
誰も当事者でない空間は、秩序を長く保てないかもしれない。
匿名空間は、オープンで自由に見えるけれど、実際にはとても脆いというのが、ボクの考えなのです。
だから、こちらのブログもそう。
実名で、顔を出して、語ってくれるヒトたちに書いてもらいたい。
実名は、不自由ではない、自由の入口です。
匿名でのやりとりは、長い目で見ると続かない。
それがボクの経験則です。
まっ、それも時代が変われば、また変わるんでしょうが。
