「ルールに基づいて社会を統治する」、ボクの記憶では、平成の30年間でそーゆー空気が強くなった気がするわね。
企業も法令やコンプライアンスを盾に動いて。対岸の火事。
やれやれと思ってました。
ボクはカフェの経営者だし、「コンプラ?関係ない、やりたいヒトはどうぞご自由に」ってスタンスで、気にも留めなかったのね。
正社員でそれなりのお給料をもらってるヒトたちは、社会がそうなれば守るほか無いでしょ。
正規の社会が認める社会が法律とルールにがんじがらめになってるとすればね。
むしろボクがやらなくてはいけない仕事は、そういうヒトたちが深呼吸できる場を作ることだぞ、ってやってきたわけ。
だけど。なんていうんでしょうかね。
いつの間にか法律に書かれていないことまで、社会は求めるようになってきた。
そんでもって、あれよあれよとボクたちのカフェにずかずかと土足で上がり込んで介入してきた。
「あなたが知らないだけで、あなたには恐ろしいウイルスが潜んでいます。不要不急でヒトと会わぬよう、店を開けないよう、近づかないよう、白い布を口に当てるよう、あーだ、こーだ、、、、」
(ちゃぶ台ひっくり返して)ウッセー、靴のまま上がってくんなボケ(怒)。
あーだこーだ。
企業だけじゃなく学校や医療、福祉、介護の分野にまで広がって、どこもかしこも刑務所みたいになった。
組織は硬直し、うまく回らず問題が山積み。もういい加減にしたらどうか。
ルールってものは、みんなが守れるように単純に作るわけね。
だから、ルールを守りましょうって話と、生きている社会を円滑に回すって話は、まったく次元が違うってことがなぜわからない。
もちろん、ルールを守ればセーフ、守らないとアウトって、テレビがはしゃいで悪目立ちしてるだけであって、ルールを守ってればうまくいくなんてことありえないと、現場にいる多くのヒトは思ってるはずです。
思ってるだけで、そんなことを口に出して言えない空気が蔓延してるから黙ってるだけ。
人間とは単純ではなく複雑です。
人間関係に疲れるのは当たり前で、他人はどこまでも他人で、付き合ってみれば自分とは違うと思い知る。
それを誰とでもわかりあえるはずと、自分の幼稚を開き直り、単純に付き合おうとするから疲れるんだよ。
ルールを守ればことが済む、そんな楽観が度を越えてきている。
「あなたの我慢が社会を回す」、人間なんて複雑なものをがんじがらめにすれば、その反動は利息をつけて戻ってくる。
「いまの子どもたちは、マスクを外せという校則を作らないと、マスクを外せないようです」。
あとでどうなっても、誰もそんなことは知ったこっちゃないと思ってる。
カフェは個人対個人の人間関係だけが頼りだから、トラブルが起きても、「まあ怒ったところで仕方ないな」、寛大と諦めの気持ちを持たねばやってられない仕事です。
いつかこっちの思いが伝われば、人間なのだから自ずと似た思いを持つだろう。
そう信じるほか無い、信仰のようなところがある。
だから自分本位の人間は、うちでは長く続かない。
大金貰えるわけじゃなし、地位や名誉があるじゃなし。
MAMEHICOは、今日も元気にお店を開けるぞ、エイエイオー、の精神で20年やってきた。
ボクの仕事といえば、元気が宿る環境作りに尽きる。
おかげさまでスタッフもお客さんも、取り巻く周辺も、その助け合いの精神で乗り越えて来たところがあります。
その経験がボクたちの自信にもなってる。
もっとヒトの温かみを持ったお店にしたいなって思うのね。
そしてそれが当たり前になる社会にね、みなさんしたくないですか?どうです?
