最近ずっと、ヨシノの舞台『脱走兵と群衆』の話をしていますが、その中に「ミーリン」という脱走兵の女の子が出てくるんです。
彼女は幼い子供と家族がいるのに、自ら志願して兵隊になった。
でも、兵隊になってからも夜な夜な寝れずに泣いている。
それを見たヨシノが、彼女にこう告げるセリフがあるんです。
「いい、あなたそのうち泣くこともできなくなるわ。
表情もなくなって、感情もなくなって、あなたがあなたじゃなくなって…。
もしそうなってしまったら、あなたは自分を取り戻すのに何十年、いや、もう二度と自分を取り戻せなくなってしまうのよ」
これはね、ミーリンが「兵隊」という仮面を被り、エリート通信兵という鎧をつけて生きていこうとした結果、自分の中が空っぽになってしまった姿を描いてるんですね。
ボクもヨシノも、そうやって、良かれと思って仮面をつけているうちに、その仮面が外せなくなっちゃったヒトたちの末路を、たくさん見てきた。
挙げ句、心を病んだり、自ら命を絶ってしまうヒトだっている。
だからね。仮面をつけるなとは言わないけれど、せめて自覚して、いつでも着脱できるようにしておいたらーって、そういうことは大事な気がするんですね。
最近、Twitter(X)で見かけて「あ、そうだな」と思った言葉があったんです。
俳優でコメディアンのジム・キャリーが言っていたとされる内容なんですけど。
「鬱」というのは、単に悲しいことがあった状態を指すんじゃないと。
作り上げたアバター(偽りの自分)を演じ続けることに限界が来て、体が「もうこのキャラを演じたくない!」と叫んでいるSOSの状態なんだ、と。
だから、うつを「深い休息(DeepRest)」と捉え直したほうがいい、という言葉です。
これ、100%その通りだとは言わないですけど、アバターを演じ続けることの限界っていうのは、あるんじゃないかなと思う。
それが20代で来るか、70代で来るかの違いはあっても、役割を演じ続けることは、どこかで体に不調をきたすものじゃないでしょうか。
ボク自身はですね、幸いなことに「仮面をつけなきゃ」と迫られる、義務感がないでいますから。
なになにでなければならないという「義務感」と「仮面」はセットな気がします。
仮面を被らなくちゃいけないんだ、仮面を被ってなにかを演じることを一つの「責任」として捉えているヒトは、脆い気がするんだな。
家族のためにお金を稼がなきゃいけない、だから、つまらなくても辞められない、というのは案外脆いんじゃないかと。
結局、自分でその道を選んだかどうかです。
たとえば親の家業を継ぐにしたって、「俺なりにこうしていこう」と自発的に選んでいけはいい。
「後継ぎだから仕方なく」と仮面を演じ続けていたら、いつか心がポキンと折れてしまう。
ヨシノが問いかけているのは、まさにそこなんです。
状況や環境のせいにするのではなく、自分の道を選びなさいよと。
アバターを演じていることにすら気づかなくなって、無表情になって、自分を取り戻せなくなる前に自覚したらどうだいと。
みなさんはどうお感じになりますか?
天才よち丸ラジオ/vol.623 仮面を脱ぐ



