平熱を高く生きる

先日、神戸のイベントの終わりに、参加された方からこんなことを言われました。

「井川さんて、お店の運営だけでも大変だろうに、そのうえ『脱走兵と群衆』なんて一人芝居を、連日やってるだなんて。『努力が嫌い』と言いながら、ほんとはすごい努力家ですよね」

その方は、褒め言葉として『努力家』と言ってくれたんだと思う。
たしかに、はたから見れば「大変なことをやってんな、どこに向かってるんだろう」と映るかもしれませんね。

けどボク自身は、自分がやっていることを「努力」だとは思ってないんですね。
んーー。考えてみると、ボクの中の「努力」が、世間一般の努力の定義と少しズレているんじゃないかと思いました。

ボクは小さい頃から、「スローガンめいた努力」が好きじゃなかったのね。
「死ぬ気で努力して甲子園に行け!」とか「必死に頑張って東大目指すぞ!」みたいなアレ(笑)。
そういう言葉の裏にある「取引」がどうも苦手です。

先生とか親「今は辛くても、努力という代償を我慢して払えば、のちに『成功』という商品が手に入ります」
ボク「ほんとかよ。それって詐欺師の戦法そのものじゃん?」
そう疑ってかかる子供でした。

今日を犠牲にして、未来の報酬を得ようとする。
ボクにはどうもそれが、「不自然な誘導」に見えてしかたなかった。
先の報酬のために我慢することを「努力」と定義するならばね、ボクははい、「努力」は大嫌いですっっっ。

だってね。そうやって我慢した結果、思うような未来が手に入らないとしたら、
「こんなに犠牲を払ったのに、思った通りの商品が手に入らないなんて!!」
「たしかに手には入ったけど、こんなひどい副作用があるなんて聞かされてなかったぁぁ(ムンク)」
と腹を立て、しまいには自棄を起こし、自分も他人も責め立てるようなヒトになってしまいかねません。

年末近くになってきたのでスタッフが「大掃除だ!」と意気込んでいますけど、ボクは大掃除というのはそもそも感心しません。
掃除は「特別なイベント」として気合いを入れるものじゃないというのがボクの考えです。
ホコリが目についたら、サッと拭く。ゴミが落ちていたら拾う。冷蔵庫の中は、いつもなんとなく整理して空けておく。
暇な時間にそういうことをやっておけばいいだけ。
それは「汚いのが気持ち悪いから」「整っている方が心地いいから」という、生理的な反応で行われる方が合理的です。

ボクにとって、MAMEHICOというお店はただの日常です。
だからスタッフに「もっとサボってやんなきゃだめだよ」と言います。
それは「お気楽、適当にやろうぜ」ということじゃなくて、「継続するために、いかに力を抜くか(サボるか)」という、スキルの話なんです。

「売上目標いくら!前年比越えろ!」みたいな、目的で釣ってテンションを上げるような熱狂は、必ず冷め反動も必ずやってくる。
盛り上がっていた組織が、気づけばひどく衰退し、跡形もなく消えていく。
そんな光景を、ボクは東京という街で嫌というほど見てきましたから。日常がなにより大事なのです。

そんなボクが大事にしているのは、「平熱の高さ」。
一瞬だけ体温を上げるのではなく、つねに平熱を高く保つこと。
テンションに依存せず、モチベーションという不確かなものにも左右されず、淡々とやるべきことを積み上げる。
雨の日も晴れの日も、自分のペースを崩さず、同じ歩幅で歩き続ける。
それは「平熱の高さ」です。

お店をやりながら、脚本を書き、照明と音楽とセットを考え一人芝居をやる。
これもまた、ボクにとっては「特別な努力」ではありません。
掃除をするのと同じ、日常の延長線上にあることです。

前回の『脱走兵と群衆』を観たお客さんが、こんな感想を寄せてくれました。

「これは、一人芝居というより〝生き方の告白〟。
井川さん=エトワール★ヨシノの語りには、ただ舞台を披露する以上の〝思い〟が宿っていますね。
劇中のヨシノは、 『自分は脱走兵のように群衆と距離を置きたい。
でも、誰かの脱走をそっと守る人でもありたい』 そこに表現者としての核があるように感じる。
シャンソンの精神〝きれいごとを歌わず、弱さと醜さを抱えたまま生きる〟という美学が、この一人芝居の味わい深さを支えている気がします。
そこが、私が何度も足を運びあの空間に少しの間でも触れたくなる理由です」

というわけで、『脱走兵と群衆』も高い平熱のまま、淡々と積み上げていきたいと思っています。

 

脱走兵と群衆
2025.12.7&23&24
MAMEHICO東京・銀座にて