過ちを超えて

アメリカの作家で、ネイティブ・インディアンと30年以上にわたって交流し、その文化や哲学を世に知らしめた作家のナンシー・ウッドの代表作『今日は死ぬのにもってこいの日』のなかの一説に、こういうのがあります。

今知っていることのすべてを
もっと以前に知っていたならば
人生を年寄りとして始めたことだろう、
若さを置き去りにすることのほか
人生に恐れることなど何もない
そう言ってくれた老人にだまされた年寄りとして。
そんな人生を送って
いったい何が面白かっただろうか?
わたしのあやまちが
わたしにどんな過程をもたらしたというだろう?
このままでいるほうがいい。
今やわたしは、若さよ帰ってこい、と願うこともできるし
若さにこう言ってやることもできるのだから、
老年とは、雨が降らなくても
緑の丘がいかに豊かに見えていたかを覚えていること
それ以外のなにものでもないのだと。
 
中年にさしかかったアンタは、こんなことを思うかもしれないね。
「ああ、今持っている知識や経験を、もっと若いうちから持ててたなら。あんな失敗もこんな失敗もせずに済んだろうに。ああそしたら、より良い人生を送れていたに違いなかろうに」とね。

たしかに。それはそうだろうね。だけど、考えてみたらいい。
もしアンタが若いうちから、もっと賢明で、ゆえに無謀なことはせず、慎重に暮らしてきたとしたら、そんな人生は。
え?果たして楽しいものと呼べるかい?

アンタは小さい頃、こんなふうに大人に教えられたかも知れない。
「勉強しなさい。ちゃんとしなさい。いい学校、いい会社に入りなさい。そうすれば、将来は素晴らしい人生を送れるのですよ」と。
そんな大人がした洗脳を、子どものアンタは素直に真に受けたかも知れないね。
私だってそんな大人に騙されて、失敗はいけないって信じてた。だけどさ。

いま、老い先短い年寄りとして、こう思う。
慎重で失敗の少ない人生ほど、つまらぬものはない、と。
そして私が若い頃にした、大きな失敗や間違った選択こそが、私を作ってきたし、私の人生そのものだった。

つまりだね。失敗や過ちなんてものは悔やむもんじゃない。
全部ひっくるめて自分の人生だと受け入れちまったほうが、どれほど豊かな生き方なのか。

もちろん。随分と年を重ねちまったからね、ふと若い体に戻れたらと思うことはあるよ、フフ。
だけどね。だけどさ。若いうちは体が丈夫なゆえに、無知で無鉄砲なことをするもんだ。
経験は豊富、頭は中年、体だけは青年、なんて。そんな虫のいい話なんてあるかね?え?
若いうちに無知で無鉄砲でやらかした失敗が、どれほどかけがえのないものだったかわかるのは、ずっとあとからなんだよ。

いまの私かい?若い頃のような無茶はもうできないね。
無謀に挑戦した不安、それを脱した喜び、人間の表と裏、その美しさ、そんなものも、みんな二度と味わうことはできない。そう?気の毒かい?

けどね。いまの私が、砂のむき出しになった丘の前に立つとするだろう。
雨が降らずすっかり荒廃してしまった丘さ。
息を吸って静かに眼を瞑る。
するとね。眼裏に美しい緑の丘の光景が、ありありと、まさに手に取るようにありありと、浮かびあがってくるんだよ。

現実の世界じゃない記憶の世界に、かつてあった美しい丘が想像できる。
それだけでもう十分に心は満たされて幸福なんだ。
年を取るということは、そういうことなんだと。なってみて初めてわかったんだ。
アンタもなってみて初めてわかる、そういうものなんだと。

井川啓央
Author: 井川啓央

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