「脱走兵と群衆」がまもなく差し迫ってる中、稽古と準備真っ只中です。
とにかく、すべてがボクにかかってるわけで。
そんなとき、ボクよりうんと若いヒトから、「井川さんにとって、生きるとはなんですか」そんな直球を投げられたんです。
そんなもの、答えられるわけないじゃないかっ。
生きる意味なんてわかってたら、こんな「エトワール★ヨシノで一人芝居」なんてことゆってるはずもないし。
──そうぼんやり思いながらも、とっさに口をついて出たのは「矛盾を抱えること」でした。
相手は「へぇ、その心は?」とニタニタしながら身を乗り出してくる。
その瞬間、問い返されたのはむしろボク自身だったんです。
「その心は?」──はて、なんだろうか、と。
ボクはいつも崖っぷちに立たされている感覚があります。
明日にはお店がなくなるかもしれない。
次の舞台はもう用意されていないにちがいない。
そんな危機感がずっとあります。
そのせいか、ときどき、高いところから足をすべらせて落ちる夢を見たりする。
街場のカフェなんて、ほんとに守られてませんね。
素っ裸で20年間、街頭に立っているような感覚です。ハハ、お地蔵さんですね。
けれど一方で。
お店を長く続けるためには、スタッフやお客さんに安心がなくてはいけません。
「貧すれば鈍する」という言葉があるように、ヒトはあまりに貧しいところに追い込まれると、正しい判断ができなくなる。
だから安心できる基盤を整えることは、経営者であるボクの役目なんだろうと思います。
できているかどうかは、わからないけど。
つまりMAMEHICOを経営するのは、細い綱を渡っているようなものです。
足を踏み外せば奈落に落ちる。
その恐怖があるからこそ全身の感覚は研ぎ澄まされ、小さなこともおろそかにせず、一回のチャンスに全力を賭けられる。
けれど同時に、その下には安全ネットも必要。
たとえ落ちても命までは失わない。
そう思えるから、ヒトは思い切って綱に挑めるよねと。
要するに、小さなお店を経営するということは、この矛盾の真ん中に立ちながら、「安心してんなボケカス」と「落ち着け安心しろドジグズ」という二つの矛盾した言葉を、ひとつの口で汚く発し続けるようなものなのだと、ボクは思っています。
話を元に戻すと、ボクにとって生きるとは?それは矛盾を抱えることなんだと答えました。
そんなボクが演る一人芝居「脱走兵と群衆」。
恥ずかしいボクを見ないでほしいという気持ちと、来てもらわないと困るんですけど、という矛盾をここでも抱えています。
ボクの好きな言葉に、「陰極まって陽に転ず」というのがあります。
陰と陽はただ対立しているのではなく、極限までいけば必ず反対に転じる。
夜が極まれば朝が来る。冬が極まれば春が訪れる。
絶望が極まれば、そこから希望が芽生える。
つまり「物事は常に移り変わり、反対のものへと循環する」ということです。
もうひとつ「一即多、多即一」という言葉も好きです。
「一即多」とは、ひとつの中に全体が宿っているということ。
「多即一」とは、全体がひとつの中に含まれているということです。
一滴の水の中に海があり、一本の木は森全体を映している。
ひとりの人の生き方が社会全体を反映している。
つまり「ひとつと全体は切り離せず、互いに映し合っている」という思想です。
こういう考え方が、ボクはしっくり来るんです。
だからボクにとって「生きるとは矛盾を抱えること」と言ったんですが、実は矛盾ではないのです。
陰と陽がひとつとなるように、両極は支え合い、世界は循環している。
対立しているように見えるものも、実はひとつの大きな調和の姿なんです。
他人には朝令暮改、支離滅裂、矛盾の塊と思われているかもしれない。
けれど、それこそがボクにとって、真理に沿って生きるということなんです。

小さな店として始めて二十年。「MAMEHICOの大切にしている10のこと」をご紹介しながら、続けることの意味をお話しします。



