誰かとつくる

この夏から、MAMEHICOで新しいドラマを撮る予定です。
いまはそのキャストやスタッフを集めて、少しずつ準備を進めているところ。

お客さんやスタッフとの共同作業で、これまでもドラマや映画、演劇をMAMEHICOを使って作り続けてきました。
ストーリーやセリフといった脚本の部分は、すべてボクが書いています。
ほかのヒトが書いた脚本で作っても構わないんだけれど、どんなに面白い脚本だとしても、ボクたちの布陣で制作するにはちょっと難しいかなっていう気がします。

というのも脚本は、ただ机の上で書いて終わりというんじゃないのね。
この役は誰が演るのか、どんな場所で撮るのか、もろもろセットで考える必要がある。
この人物ならこう演じてくれるだろう、なんて思って書いても、相手はプロの役者じゃないからね。
「そんなのできませんよ」と言われたりする。
「いやいや、普段のあなたのままでやってくれたらいいんだけど」とボクが食い下がっても、本人は「わたしは普段こんなんじゃありません」となったりして、結局、脚本の方を変えるしかないんです。

ボクたちの現場は、そうやってひとつずつ対話しながら形にしていく。
その過程がボクには面白い。
もちろん、とてもめんどくさいことです。
けれど、それが面白いと思えないとやっていけない。
いろんなヒトと関わり、ぶつかり、支え合いながら、何かを創っていく。
その面白さが、ボクがまたドラマを撮りたいと思う理由です。
ものを作る楽しさって、結局、「自分は他人とは違うという楽しさ」に尽きるでしょう。

ものを作るというのは、つくづくヒトとヒトとの仕事だと思う。
ボクはかなり一人でいろんなことができるけど、でもやっぱり、一人では作品はできないわけです。
演技のうまいヒト、衣装に強いヒト、段取りの正確なヒト、現場の空気をやわらげるヒト、長時間でも立っていられるヒト(笑)──地味だけれど欠かせないヒトがたくさんいて、ひとつの作品はできあがっていく。
表に名前が出るのはごく一部だけど、見えないところで支えてくれてる手がいくつもある。
そのおかげで、ボクはMAMEHICOで作品を作り続けてこられてるんだと思っています。

いまは「個」がとても重視される時代ですね。
戦後の大量消費社会とともに、「個人の能力」や「個人の表現」が持ち上げられるようになって、それ自体は悪いことじゃない。
でも、どんなに「個」が強調されたって、ヒトは誰かに依存せずに生きることなんてできないものでしょう。
人間はそもそも、支え合って生きるようにできているわけで。
それを、「自分一人ではなんにもできないんです、グスン」なんて落ち込んでる若いヒトには、「恥じる必要なんてまったくない」とボクは言ってます。

中世のころは、作品に作者の名前すらないものもたくさんあった。
ボクは狛犬が好きなんですけど、福島・白河には名石工、小松寅吉がいました。
いまも福島に残る狛犬の多くが彼の手によるものですが、そのことを知っているヒトなんてほとんどいない。
「誰が作ったか」より、「なんのために作るか」が大事、という時代のほうが、ずっと長かったんです。
作家の名前が前に出るようになったのは、ここ百年くらいのこと。
それも、産業や思想の流れの中で、たまたまそうなっただけなんじゃないかとボクは思っています。

2025年の世界はとても複雑です。
ひとつのドラマで、世界のすべてを描くことなんて、もうできなくなってきている。
今回撮ろうとしているドラマも、きっとそういう複雑さがそのまま露出するようなものになると思います。

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