カナダの学者、ガッド・サード氏が「自殺的な共感(SuicidalEmpathy)」と呼ぶ概念について、イーロン・マスクさんが指摘していました。
端的に言うと「西洋文明の最大の弱点は共感である」、そんなようなことです。
ヒトを思いやる尊いはずの美徳が、いまやヨーロッパのキリスト文明そのものを死に至らしめるウイルスかのように変質している、と。
その言葉は、そっくり今の日本にも当てはまるとボクは思う。
日本にも古くから、相手の痛みを分かち合う「共感」という美しい徳分がありましたが、それは「厳しさ」を伴っていました。
けれど、いま「子供のしつけ」ひとつとっても、どうもおかしい。
うちにいる若い世代のスタッフたちも、「親の自分本意な甘やかし」を「親の愛情」と取り違えて、とてもいま苦しんでいます。
かつて大人が子供を厳しく律したのは、その子の自立のためでした。
将来、誰かを支えられる人間になるために与えた「愛」だったはずです。
しかし現在、その厳しさは周囲の「可哀想」という一言で封じ込められてしまいます。
「そんなに厳しくしなくても、可哀想じゃない」
「嫌がることをさせるなんて虐待でしょう」
こうした「善意」に基づいた過度な甘やかしこそが、サード氏の言う「自殺的な共感」ではないか。
結果として子供から困難を乗り越える力を奪っているとは前に指摘したとおりです。
そして誰も責任を取らず、ただ「甘く優しく」だけが漂う歪ないまの日本社会。
ボクはこれは「父性の欠如だ」と言い続けてきたので、このたびのガッド・サード氏の「自殺的な共感」に興味が湧いたんです。
ではなぜ、人々はこれほどまでに極端な「正義」や「共感」に執着するのか。
マスクさんは、その背景に「伝統的な宗教の衰退」を挙げています。
“かつて宗教は、自分を超越した大きな存在に照らして己を律する「指針」を与えていた。
→しかし社会が世俗化し、その規範が消えたことで、人々の心には巨大な「空白」が生じた。
→そこに滑り込んできたのが、社会的正義への過度な執着―「ウォークネス」である。
→弱者を救い、可哀想な人に共感する。その行為は、失われた宗教の代わりなのだ。
→「善意」は「自分は正しい側に立っている」「自分は善い人間だ」という確信を得るための救済儀式である。
→だからこそ彼らは、自身の「善意」に対する異論を、いっさい許さないのだ”
という指摘です。
マスクさんもボクも世代が近いので、思うところが近しいのかもしれません。
さて。
ボクが手がけているエトワール★ヨシノの一人芝居『脱走兵と群衆』という物語で描いているのも、まさにこの景色です。
群衆は常に、わかりやすい「善意」や「正義」に熱狂する。
しかしその正体は、思考を放棄した無責任な共感の連鎖に過ぎません。
群衆の中にいれば、自分の頭で考える必要はなく、誰かが「可哀想だ」と言えば一緒に涙を流し、誰かが「あいつは冷酷だ」と言えば一緒に石を投げる。
そうすることで、内なる空虚さを紛らわせ、偽りの充足感に浸る。
劇中のヨシノは、群衆と距離を置きつつ、誰かの脱走にそっと寄り添う、優しくて強いヒトとして描いています。
その『脱走兵と群衆』、12月23日、24日に上演します。
ボクの作品である『チキン』や『ぽうく』の流れにある、ヒリヒリとした手触りで、クリスマスらしい甘い作品ではありませんが、銀座のMAMEHICOで皆さんと少しこの「問い」を共有できれば幸いです。
せんだっての上演後、ある男性からこのような感想が届きました。
「誰もが〝正しさ〟に酔って『脱走兵』に石を投げる…。それでも『群衆』の中に〝匿う人〟がいる。『一人の行為』は世界全体から見れば小さな温もりだけれど、その温もりが人を生かす。これこそ、奇跡の最小単位なのかもしれない」
ヨシノは、ボク自身の「こうありたい」という姿でもあります。

脱走兵と群衆
2025.12.23,24
13:00〜/19:00〜
MAMEHICO東京・銀座にて



