灯りを受け継いで

みなさん、こんにちは。MAMEHICO紫香邸スタッフの原幸子です。
私は東京に暮らしながら、毎週桐生に通いカフェの営業をしています。

紫香邸との出会いは、MAMEHICO制作のドラマ「ノッテビアンカ」のロケ地探しがきっかけでした。
その連続ドラマでは九重マイコ役を演じました。
劇中のマイコも、子どもに関わる仕事をしながら、かつてはピアニストを夢見ていた女性です。

今日は、MAMEHICOとの出会いと、なぜ私がここにいるのかについてお話ししたいと思います。

MAMEHICOを知ったのは2015年。
ゲーテ先生の音楽会というお芝居でピアノを弾きに来たのがきっかけでした。
実は6歳からピアノを始め、音大のピアノ科を卒業しています。
音大生として学びながら、学外の活動の一環で渋谷のMAMEHICOに出入りしていました。

私の母方の祖父母は、川崎で中華料理屋を営んでいました。
街の食堂のような小さなお店で、祖父はお客さんにいつも大盤振る舞い。
頼んでいないのに餃子や胡麻団子を出してあげるような人でした。
お客さんたちはみんな祖父のことをマスターと呼んでいました。

祖父母に会いに行くと、私の話し相手はお店のお客さんたち。
親切なおじちゃんやおばちゃんがかわいがってくれて、祖父の人柄がそのままお店の空気になっていました。
ランチタイムが終わると、祖父は嬉しそうに厨房から出てきて、海老チャーハンつくろうかと言ってくれました。
ヒトに喜んでもらうことが大好きな祖父でした。

マスターの娘だった母は、町の中華屋の娘であることを嫌い、サラリーマン家庭に憧れて音楽の道に進みました。
だから私も自然と音楽の道へ。けれど途中で挫折しました。
ピアノの上達が止まり、弾くことを考えるだけで体が硬直し、吐き気やめまいが出るようになったのです。

そんなときにMAMEHICOに拾ってもらいました。
両親は心配して反対しましたが、私はMAMEHICOの空気に救われました。
最初のころはドジばかりで、豆腐の角に頭をぶつけて死にたいと思う日々でしたが、気づけばめまいも吐き気も治まっていました。

それは食べものが良かったこともありますが、母の思いだった音楽と、祖父の思いだったお店という二つの要素が、自分の中で自然に結びついたからだと思います。
二人の願いが一つになったような気がして、それが本当に嬉しかった。
毎日が楽しいと思えるようになったのです。

MAMEHICOで井川さんを見ていると、亡くなった祖父を思い出します。
営業の日々やイベントで、お客さんが声をかけてくれたり、手伝ってくれたりする姿を見ると、子どものころお店でかわいがってくれた人たちを思い出します。
井川さんがよく言う「小さい頃に感じたものが、その人の人生を決める」という言葉が本当に胸に響きます。

MAMEHICOのスタッフになって4年。紫香邸に通うようになって2年が経ちました。
最初は慣れない土地で不安も多く、古民家の管理や掃除の仕方もわからず、地元の方に助けてもらいながらの毎日でした。
それでも少しずつ応援してくださる方が増え、本当にありがたく思っています。

お店を開け続けること、料理を作り続けること、お客さんに喜んでもらうこと。
それはきっと祖父の願いでもあったのだと思います。
祖父は骨折をきっかけに寝たきりとなり、祖母が店を継ぎましたが、女手で中華鍋を振るのは大変で、やむなく閉店しました。

今、私が紫香邸でお店を切り盛りしているのは、祖父の「ありがとう」という声が背中を押してくれているように感じるからです。
この家を建てた人の思い、祖父の思い、時代を超えてたくさんの人の思いが集まる生きた家として、これからも灯りをともし続けていきます。

 

【紫香邸をみんなで守り育てたい】
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