今、MAMEHICOでは「面白可笑ひこ学校」という演劇のワークショップを始めています。「自分を変化させたい」「今までの価値観を変えたい」と思っているヒトは多いはず。そんなヒトにとって、自分を客観視できる「演劇」という道具は、とてもいいものです。
「変わりたい」と言いながら、実は「今のままでいたい」と鎧(よろい)を脱げずにいる自分。
そんな自分と折り合いをつけ、決着をつけるために、あえて恥をかいたり、大きな声を出したりする。その泥臭い一歩が、ヒトを一変させることがありますから。
さて、今日のテーマは、「欲しいものは欲しいと言え」です。
今の世の中、安くて快適なものが手に入るいい時代になっていますね。だから「欲しい」と言わなくても、自然と周囲に必要なものが揃ってしまう環境にあります。スマホが欲しいよ、なんて言わなくたって買い与えられるのが当たり前です。
だからこそ、今の時代は欲しいものを「欲しい」と言わないヒトがとっても多い気がするんです。
けれど。もし「知性」というものがあるとすれば、それは欲しいものを手に入れる能力だとボクは思う。なぜか。
今の社会では「知性」を「知識の量」や「計算の速さ」といったスペックのことだと勘違いしているヒトがいます。それは障害物のない真っ直ぐな道を誰よりも早く走れる能力のことですけど、人生において本当に欲しいものは、どう手に入れたらいいか分からないものばかりです。
仮に、正義を貫きヒトの役に立てる弁護士になりたいという目標があったとすれば、何をもってヒトに役に立つのかを哲学し、その精神力をどう養うかを考えなければならない。それはなかなかに、めんどくさい道です。
これは職業に関係ありませんね。欲しいものを手に入れようとすると、必ず困難が待っています。
幸せや豊かさといった抽象的なものを手に入れようとするとき、お金という道具にすり替えるのではなく、答えのないゴールを見据えて進むには、総合力としての「知力」が必要です。試合というルールには勝っても、本当に欲しいものを実は手に入れていないヒトだっていっぱいいます。
今はルールチェンジの時代でしょう。既存のルールを必死に守ろうとするヒト、壊そうとするヒト、次のルールを立ち上げようとするヒトが混ざり合っています。自分の立場から「ルールが変わったら困る」と思うヒトは、今のルールを守ることに必死になればいい。けれど、結局自分は何が欲しいかです。
だから、知性とはスペックではなく、必ず起きる障害、邪魔をされたり、裏切られたり、誤解されたりといった困難に立ち向かったときに、戦うのか、引くのか、あるいは迂回するのか。その選択肢をたくさん考え、選ぶ能力ではないかしら。
本心を曖昧にしておけば波風は立たないかもしれません。しかし、知性というものは「欲しいものは欲しい」と言ったときにこそ発動するものです。茨の道を選択したときに初めて「知性」が発動し、それが自分の中に経験として残る。
窮地に陥ったときに、大した選択肢がないとか、選択そのものを誰かに委ねちゃうとか、お金で解決しちゃうとか。それを避けるためには「知性」を磨く他無いというはなしなんです。
ではそのための「知性」はどうやって磨かれるのかといえば、我慢を覚えるだけじゃなく、責任を持って自分を選択することでしか、磨かれないのではないかしら。
自戒を込めてのお話でした。



