弱さがひらく道

『神戸 暦の手帖』というYouTube番組を作っています。
お花の先生、一谷さんと一緒に、道草をしながら神戸の街を歩く動画です。

一本撮るのに丸1日かけて、ゆっくり撮影しています。
おかげさまで好評なので、来年はこの街歩きを『銀座』や『桐生』へも広げていこうかと。
一緒に作ってくれるスタッフも、今、募集中です。

さて。 撮影をしていると、神社に立ち寄ることが多いんですね。
どの神社も、不思議と水と縁が深い。
岩陰から湧き水が出ていたり、清冽な滝が流れていたり。
生命の源である水が流れるその場所は「パワースポット」と呼ばれ、みんな強いエネルギーを求めて集まってくるわけですがね。

ボクは「パワースポット」に行くと思うんです。
ここは「強い場所」じゃなくて、本当は「弱い場所」なんじゃないか、と。

だって、そうでしょう。
硬く、強い岩盤からは、水は一滴も染み出さないものです。
水というのは、岩盤のどこか脆く、弱いところから、ゆっくりと漏れ出てくるものなんですよ。
ということはですよ、水が湧く聖地というのは、地質的には「弱点」が露出している場所といえやしないか。

だから、パワースポットというのは、強さで「頑張れ」と奮い立たせるところじゃなくて、その弱さがあるからこそ、ヒトを包み込み、受容してくれるところなんじゃないかと。
その「包容」が、弱ったヒトを支え、回復へと導いているのではないかと。
包容と回復。それがいま切実に求められていて、だからこそのパワースポットブームになっているんじゃないかと、神社を歩きながらそんな空想を巡らせているんですね。

人間、頭では「強く生きなきゃ」とわかっていても、現実ではそう簡単じゃありませんよね。
論理や観念で割り切れない、曖昧で弱い存在が人間だとボクは思う。
「強い場所」に行くと、自分も強くならなきゃいけない気がして、かえって苦しくなることだってある。
本当に大切なのは、論理の正しさより、不完全な「存在」そのものが許されることではないかしら。

それは、ボクが考えているカフェの役割そのものでもあります。
ボクたちには、大企業のような「強さ」はない。
けれど、強さがないからこそ、その「弱さ」ゆえに、お客さんを包み込み、受容することができるんじゃないか。
勝ち組の、隙のないカフェには、そういうことはできない気がします。

弱いヒトが強いものに憧れ、惹かれるのはわかります。
けれど、最後にヒトが帰ってこられるのは、強さを誇る場所ではなく、弱さを許してくれる場所ではないか。

ボクが作っている『暦の手帖』では、そういう視点を大切にしたいんですね。
強さや極端な正しさではなく、地道さや、曖昧さを手放さないこと。
「弱さの力」を信じて、ふらっと道草を食いながら、これからも歩いていこうと思うんです。