孤の蕾がひらくとき

目を背けたくなるような痛ましい暴力事件が、次々とニュースから流れてくる。
「世の中、結局は暴力なのか」と嘆かわしくなる。
けれど、嘆くだけで何もしなければ世の中は良くならない。
暴力や理不尽に毅然と立ち向かい、声を挙げなければ、それは黙認と同じであり、暴力に暗に加担しているのだと言われても仕方がない。

――そんなことを言ったヒトがいて、「その通りですよ」とボクもそのときは同意してみたものの、実際はなかなか難しいと思う。

「真っ白な正義」をすべてのヒトに求めるのは酷だと思う。
正義感や道徳心だけで行動できるほど、ヒトはそこまで強くない。
いや、強い弱いだけの問題でもない。
声を上げれば、自分や仲間、家族が傷つくかもしれない。
勝つか負けるか、やるかやられるか。
世の中はきれいごとではなく、命と生活を守るためにヒトはなりふり構わず対処しなければならない。
令和といえど、戦国時代とさほど変わらないものだ。

だから家族や仲間を犠牲にしてまで、正義感を振り回せるわけがない。
「正義感をかざして命を投げ出したい?そういうのは向こうでやってくれよな。やりたい連中が勝手にやればいい。少なくともオレ達を巻き込まんでくれ。そしてその、何もしないオレたちを蔑むような目で見るな」
――そんな意見があって当然である。

負ければ一族郎党が滅びるとわかっているなら、見て見ぬふりをするのは自然なことだ。
誰だって自分や仲間の身を守ることを優先する。
その気持ちを責めることはできない。
ただ、それでは世の中は一向に良くならない。
沈黙していれば、現実は悪いままで固定される。
必要なのは、全員が勇気を出すことではない。
たった一人でいい、誰かが「いち抜け」すること。

〜 一人「いち抜け」すれば 世間はわずか 変化してゆくもの 〜

これはエトワール★ヨシノの歌「孤の蕾」の一節です。
大多数が沈黙していても、一人が抜け出せば空気は変わる。
誰かが立ち上がれば、周りも「やっていいんだ」と気づく。
そこから少しずつ広がっていく。
小さな動きから社会は変わり始め、その変化が次の変化を呼び込む。
それをバタフライ現象と呼ぶこともある。

9/15に銀座で演じる、エトワール★ヨシノの一人劇「脱走兵と群衆」では、その問いを舞台で描いています。
戦場という極限の中で、歌手ヨシノと通信兵ミーリンは出会う。
誰もが命令に従い、自分だけが無事ならいいと考える中で、二人は「いち抜け」しようとする。
その一歩が、世界を変えていくという物語です。

「孤の蕾」は舞台の最後に歌います。
〜 一人「いち抜け」すれば 世間はわずか 変化してゆくもの 〜

たとえ小さな一歩でも、それは確かに世界を変える力になる。
真実を知ってしまった以上、それにどう向き合うのか。
それが、これからのボクたちへの大きな課題になるという予感を込めて。

 

音楽劇「脱走兵と群衆」
2025年9月15日(祝)
昼の部 開場12:00 /開演13:00
夜の部 開場17:00 /開演18:00