お弁当を作りはじめたのは、コロナ禍がきっかけでした。
渋谷のお店に一般のお客さんが来なくなり、常連のお客さんだけが一日中店にいるようになったのです。
さすがに珈琲とケーキだけで過ごすのは体に負担があると思い、体に優しい食事を用意するようになったのが始まりでした。
やがて、緊急事態宣言とその解除が繰り返される中で、食事も持ち帰れるようにと、お弁当という形に変わっていきました。
最初は数個だったお弁当も、気づけば一つ増え、ふたつ増え、最後には毎日何十個も作るようになりました。
朝、キッチンに立って冷蔵庫を開け、卵がある、葉物がある、昨日の煮物がまだある──そんな具合にして、日々の組み合わせを考えながらお弁当を作り続けました。
コロナの三年間、忙しい朝のお弁当作りが、やがて日課になり、習慣となっていったのです。
料理は本来、その場で食べるのが基本ですが、お弁当は時間をおいて食べる前提で作られます。
だからこそ、冷めてもおいしいように、味つけや詰め方には細かな配慮が必要です。
水分の多いものは避け、味がぼやけないよう、家で食べるよりも少しだけ濃いめにする。
おかず同士が干渉しすぎないよう、配置にも工夫を凝らす。
そんなことが自然と身についていきました。
ボクが作ってきたお弁当は、野菜を中心に、おかずを数種類、玄米とともに詰めたものでした。
まずモチモチに炊いた玄米が中心にあり、それを引き立てるように焼き魚、煮物、だし巻き、青菜の和物、漬け物などが並びます。
どれも特別なものではありませんが、組み合わせ次第でひとつの豊かな一食になる。
塩、しょうゆ、みりん、酢といった基本の調味料の組み合わせこそが、味の決め手になるのです。
季節の食材を使うことも、お弁当作りを続ける工夫のひとつでした。
春には菜の花やたけのこ、夏にはとうもろこしや枝豆、秋にはきのこ、冬には根菜類──旬の素材を探しに毎日市場へ通い、何を作ろうかと考えることが、日々のリズムになっていました。
容器にもこだわりがありました。
ひとつひとつ手で削られた杉のわっぱ弁当箱にご飯とおかずを詰めると、それだけで空気まで美味しくなるような気がしました。
ただこのわっぱ、使っていくうちにどんどん黒ずんでいきます。
酢や漂白剤を使っても簡単には取れません。
初めて召し上がる方には、不潔に見えるかもしれません。
「カビでは?」「不衛生では?」──そう思われることもありました。
でもそれは杉の経年変化であり、木の自然な味わいなのです。
そうしたことを丁寧に説明し、理解してくださるお客さんとの信頼関係があったからこそ、続けてこられた。
そういった対話こそが、お弁当クラブの本質だったのかもしれません。
食べるという行為を、ただの栄養摂取ではなく、丁寧な営みに立ち返らせてくれる──そんな力が、こうした小さな道具にはあると思っています。
スタッフの間でも、お弁当を通して人間関係が変わったと聞きました。
それまであまり話すことのなかった常連さんの暮らしぶりを、「今日は何を入れてくれたの?」という一言から垣間見るようになったり。
お弁当は、ただの食事ではなく、静かに人と人をつなぐ手段だったのだと、今になって思います。
あれからコロナが明け、徐々にお弁当の注文は減っていきました。
そして昨年末で、お弁当クラブは幕を閉じました。
けれど、あの三年間の毎朝の台所には、確かに生きた時間が流れていました。
日々の小さな積み重ねが、自分自身の輪郭を形づくっていたと、今もそう思っています。

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