たとえば、チャバタとロデブというパンがあります。
東京にはそれぞれのパンを売っているお店があって、ボクもたまに買います。
チャバタはイタリア語で「スリッパ」の意味、ロデブはフランスの街の名前です。
このふたつ、どちらも外はバリッとして、中はもっちりしたパンで、要はおんなじです。おんなじだけど、名前が違うから違うのです。
グラナ・パダーノとパルミジャーノ・レッジャーノというチーズがあります。
どちらもハードタイプのイタリアンチーズで、パスタに削ってかけると美味しいやつです。
本場イタリアに行くと、その差異に愛着を持っているヒトがとても多くて、熟成具合など味の違いにこだわった専門店が軒を連ねていたりします。
だけど日本では、どっちも「粉チーズ」、なんですね。
「すみませーん、ナポリタンに粉チーズお願いしまーす、ついでにタバスコも」。
実に乱暴です。
でも日本では「粉にしたチーズ」として生活に根づいていて、みんなその味を楽しんでます。
カフェでお茶を飲んでいたら、隣の女の子のグループが、
「わたし、カフェラテよりカプチーノのほうが得意」
「あー、ほんと、それな」
と話していました。
「この子たちは、そのふたつの違いをどこに定義してるんだろう」と気になってしばらく盗み聞きしてみました。
だけどどうやら。
明確な定義はなくて、ただ雰囲気で使い分けて楽しんでるようでした。
カフェはコーヒー、ラテがミルク。じゃぁカプチーノは?
「帽子」を意味するイタリア語で、カトリック修道士のフード付きの服「カップッチョ」にちなんでるそうです。
泡が帽子のように乗ってるからカプチーノ。
このふたつ、泡の量が違うのよ、注ぐ順番が違うのよ、と論争がありますが、泡立てたミルクにエスプレッソを注ぐって点で、どちらもおんなじです。
街の女の子たちは、つまらぬ違いなんか気にせず、ごっちゃにして楽しんでる。
日本にもカフェラテ文化が大衆化した証拠です。
そういう意味で、ベトナムに行くと、バイク全般のことを「ホンダ」と呼んでて驚きます。
乗ってるのがヤマハやスズキであっても「ホンダに乗ってる」というベトナム人。
ホンダのバイクが圧倒的だったから、社名がジャンルになってしまったわけで、やるなぁ「ホンダ」。
それは旭化成のポリエチレン製の食品用ラップフィルムが「サランラップ」となったり、E.H.ホッチキス社の紙綴器が「ホッチキス」、ニチバンの粘着テープが「セロテープ」、TOTOの温水洗浄便座を「ウォシュレット」、ヤマト運輸の宅配便を「宅急便」となったのも、その圧倒的シェアにより大衆化して一般名詞化したものばかりです。
一般化するということは、便利になること、それは良いことです。
ただ。どんどん差異がなくなるということ。
こだわりがなくなり、当たり前になるということは、愛着が薄れるということでもある。
MAMEHICOの黒豆寒天が「クロカン」として、世の中の当たり前になったらどうだろう?
そのとき、ボクは嬉しいのだろうか、寂しいのだろうか?
「粉チーズ」や「ホンダ」と一括りにされたら、ボクは寂しい。
差異にこだわったまま人生を終えたい。
ちなみに、神戸で今川焼のことを、「御座候(ござそうろう)」と呼ぶと聞いたときは、あまりに驚いて椅子から転げ落ちました。