新年あけましておめでとうございます。
今年もボクの考えや感じていることを、みなさんにお伝えしていければなと思っています。
昨年もお芝居をはじめ、いろいろな作品制作に関わってきましたが、その中で、準備してたのに残念ながら上演できなかった作品がある。それは「ぽうく」という演劇作品です。
「ぽうく」は豚肉のポークから取った名前で、2021年と2023年に再演したもの。
この作品、少し不気味で現実離れした寓話でして、、、。
主人公の中年男が「サシガネムシ」という特殊な寄生虫に体を支配される。
この虫に寄生されると、「電車に飛び込む」という衝動に駆られてしまうので、病院からは「あなた自身と、周囲の大切な人たちの命を守るために、隔離された独房で一生を過ごしてください」と説得されてしまう。
これはですね、「サシガネムシ」に操られるしがない中年男の悲劇ではなく、「サシガネムシ」を利用して庶民を支配する権力者たちの悲劇が主題です。
この話を書いたのは2021年ですから、当然コロナ禍が背景にあるにはあるんだけど。
□「おかしなことをおかしい」と気づかない。
□「普通の人々が持っている恐ろしいほどの鈍さとその結果」。
それはボクがずっと小さい頃から心に引っかかっているテーマなんです。
ボクの子ども時代の読書体験の中で、「ユダヤ人がドイツ人によって理由もなく迫害された」という事実に出会った。
そのとき、「なぜユダヤ人は迫害されなければならなかったのか」という問いが当然浮かびますよね。
けれど、その答えを求めても、「ユダヤ人だから」という曖昧で理不尽な理由にすぎなかったんです。
それで少年だったボクは、強い違和感と怒りを覚えたんですね。
ユダヤ人が気の毒で可哀想という気持ちより、なぜ誰もこの歴史的な愚行を止めなかったのか、という怒りに震えた。
それで自分なりに、大人の本も手に入れれるものを探しては、どこかに自分が納得できる回答はなかろうかと探したんですけど。
――むしろ、生真面目で几帳面なドイツ人たちが、なぜそんな恐ろしいことをしたのかという疑問のほうが深まるばかりでした。
そして、青年になって行き着いた結論が、「ああ、普通の人間ほど恐ろしいものはないのだ」という、ボクなりの諦めにも似た答えでした。
悪人ではなく「普通」に過ごす人たちこそが、状況次第で大きな悪を生んでしまうのだと。
自分の身の回りの学校生活や、家庭生活でも、たしかにそうだなと。ほんとの悪がいるわけではないのだと。
ということはボクの両親だってあの時代のドイツにいれば職務として、可愛い息子であるボクのためにアイヒマンになっていたんだろう。
もうそれを考えたら、おいおいと一人泣いてしまうんですね。
なんていうんだろう。自分のような子どもを守るために、毒ガスのレバーを引いてしまう父親を情けないと思う気持ち。
そんな風に庶民をさせてしまってる権力者の愚行。
その権力者を選んで喜んでる庶民の無知。
そして自分も、いずれそのレバーを引いた日の夜に、クリスマスチキンを食べる日が来るという恐怖。
一冊の本を通じて哲学者ハンナ・アーレントの「凡庸な悪」という考え方を知ったことは、今でもボクの哲学の根底を支える大きな影響を与えています。
彼女は、ナチスの戦犯アイヒマンを通して、ただ命令に従っただけで恐ろしい悪が生まれるという事実を、戦後、自分の著書の中で指摘しました。
アーレントはとにかく「自分で考えることの重要性」を訴えまくったんです。
「もしあなたが、自分で考えることを怠れば、自由や民主主義は簡単に崩れ去り、社会はあっという間に地獄になるのよ」。
「ぽうく」の中で次の歌をボクはフウという役に作って歌わせます。
聞かせる相手は、「サシガネムシ」にコントロールされているユイという親友です。
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フウの歌『考えて、考えて』
人間だからね 考えるのよ
それをやめてしまった不幸な人たち
可哀想なピープル
戦争が起きたらどちらかだけを応援するから
おかしくなるのよ 依存と正当
人間だからね 考えるのよ
それをやめてしまった
不幸な人たち
可哀想なピープル
噂を聞いたら 信じたらダメ
嘘かもしれないと
疑うことなの
確認と検証
人間だからね 考えるのよ
それをやめてしまった不幸な人たち
可哀想なピープル
脅かされても目を開けなさい
目を閉じてしまうから やりたい放題
監視と眼差し
考えて 考えて
たとえ わずかな時間しか残されていないとしても
考える それが唯一つの希望
考える それが唯一つの希望
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この歌を聞いたユイは、フウを煙たがって距離を取る。
そして「サシガネムシ」へとまんまとコントロールされてしまうという物語です。
今年が良い一年になるといいですね。