脱走兵と家族の物語

こんにちは。MAMEHICO東京メンバーの菊池幸恵です。
私は岩手在住ですが、MAMEHICOが好きで、東京に来るたび、ついMAMEHICOに立ち寄ってしまいます。

岩手も少しずつ秋めいてきて、夜には虫の声が響くようになりました。
そんな中、お盆前に父の兄が帰省し、父方の祖父の戦争時代の話を聞くことができました。
今日はそのお話を少し紹介したいと思います。

父方の祖父が大東亜戦争でフィリピンへ出兵したときのこと。
世間ではあまり知られていませんが、戦争が難局に傾くと、どの部隊のトップもこっそり逃げていたそうです。
祖父のいた部隊には、祖母の弟にあたる人物がいて、部隊のトップの秘書のような役割をしていました。

戦争が難航したある日、部隊のトップが逃げることになり、秘書である祖母の弟も同行することになりました。
そのとき、祖母の弟が祖父のもとへ倉庫の鍵をこっそり持ってきました。
鍵を受け取った祖父は、倉庫から米俵を一俵抱え、仲間とともに逃げ出したそうです。
ただ、米俵一俵を担いで逃げられたのは祖父だけで、他の人は持って逃げられなかったとのこと。ちなみに米俵一俵は60kg以上あります。
祖父が担いだお米のおかげで、みんな何とか生き延びることができた…と。

戦地では、夜間に火を熾すため、歩くときに小枝を拾い集めてポケットに入れていたそうです。
日中に火を焚くと敵に場所を知られるため、暗くなった夜間にだけ火を熾し、周囲の小動物を捕まえて温かいものを食べていたとのこと。
火を焚くものがない人は、温かいものを食べることができませんでした。
そのため、祖父は「物を大事にしろ」と口癖のように言い、とても厳しい人だったと言います。

祖父は変わり者で、家に茶室があったり、襖に漢詩を書いたり、絵師に頼んで襖に絵を書いてもらったりしてました。
家は貧乏だったのに、そんなところにお金を使ってたんだなー、なんて伯父が話していました。

そういえば、父が以前話していたことを思い出しました。
「親父が言っていた教訓だ。どんな世の中でも凶作で米が足りなくなることがある。土地はなくさないで、自分の食べる分だけは耕せ」と。

今年は戦後80年。戦争を直に経験した、じーちゃん、ばーちゃん世代が少なくなり、戦争の話を聞くことも少なくなりました。
久しぶりに伯父から聞いた戦争の話は「脱走兵」の話でしたが、私が勝手にイメージしていた脱走兵とは、なんだか違っていました。
ヨシノさんの舞台やみゆきさんの夜会で描かれる脱走兵は、部隊の下っ端が逃げる話です。
こちらの方がイメージがつき、感情移入しやすいです。 

今回、伯父から聞いた脱走兵は、部隊のトップです。
部隊を率いるトップの脱走、下っ端への裏切り、自己防衛。
武士道の精神や切腹を美徳とする時代背景を考えると、何となく違和感を覚えます。
とはいえ、部隊のトップと言えど、更にその上に指揮官がいて、そこからの命令だった可能性もあります。
戦時下では、いつ命が散るか分からない緊張状態の中で、負けるという情報があれば、トップも下っ端も関係ないのかもしれません。

たまたま祖母の弟が同じ部隊にいて、トップと一緒に逃げることになったおかげで、祖父は倉庫の鍵を受け取り、食料を得られ、生き延びることができました。
そういったかたちで命を繋げることができたことを知ると、何とも言えない気持ちになります。先人たちに感謝です。

 

音楽劇「脱走兵と群衆」
2025年9月15日(祝)
昼の部 開場12:00 /開演13:00
夜の部 開場17:00 /開演18:00