ラッキョウの皮をむくように

6月初旬に漬けたラッキョウが、ほどよくいい感じになってきた今日このごろ。
ボクが好きで毎年漬けていたラッキョウの甘酢漬けですが、今年は神戸・御影の売店で実施されている「カレー祭り」で販売することになりました。
恩着せがましく言うこともないですが、このラッキョウ、実はすごく手間がかかってるんです。

まず、ちょうど良い大きさのラッキョウを探すのが大変です。
東京で見かけるラッキョウは、鹿児島、鳥取産が有名どころ、大粒の「らくだ」と呼ばれる品種のものです。
スーパーマーケットに並ぶラッキョウは、パック詰めされ、ラップで巻かれています。
パックの中のラッキョウは、薄っぺらいもの、ぷりっとしたもの、根が長いもの短いものとまちまち。
なかでも根本がぷりっとしたものが、たくさん入ってるパックを探してはみるんだけど、これがなかなかありません。
インターネットでも安く売ってるのをみかけるけど、ボクが買うのをためらうのは、この「ぷりっと」がどれだけ入ってるかネットではわからないから。
いずれラッキョウ農家と親しくなりたいものだ。

今年のラッキョウは、銀座からの帰りみち、深夜、たまたまバイクで立ち寄ったスーパーマーケットで発見したもの。
大収穫、店頭にあるラッキョウのパックは一人で買い占めた。
深夜の無人レジで、ひとりラッキョウを買い漁っていたのはボクです。
かなり買ったけど、それだけでは足りず、数日後おなじスーパーに行って再度買い占めた。

ラッキョウは洗ったら皮を剥いて、2週間、塩漬けにします。
途中水分が出てきて、それが乳酸菌発酵してくるまで漬ける。
しかしその間、なんていうかその、部屋がですね、たいへん硫黄臭くなるんです。
密閉容器に入れ、さらにラップで巻いても、まだまだ臭い。
ラッキョウが発酵した匂いは、なんとも強烈です。
おそらく、毎年梅雨の季節になると、ボクに出会ったヒトたちは、「コイツ臭いな」と思っているに違いない。
一時期、キムチ作りにハマっていた時も、部屋中が強烈な生ゴミ臭がして、でも匂いというは慣れるから、やがて自分の鼻では感じなくったことがある。
「もしかしら、ボクは陰でゴミ男と呼ばれてやしないか」と、突然怖くなってキムチ作りを止めた経験がある。
いまも「ラッキョウ男」「硫黄男」と呼ばれているのではないかとヒヤヒヤしてる。

ラッキョウの皮をむいていると、どこまでもむける。
やがて小さな芯のようなものが出てくる。
この皮をむく作業がボクは好きです。
お芝居なんかの演出をしていると、この皮をむく作業に似たようなことがある。
日頃生活していると仮面やら鎧を付けて生きていかないといけない。
演劇というのは、それを一枚ずつむいていく作業です。
面白可笑ひこの演出をしていても、「もうこれ以上むけません」って言い出すけど、大抵は、まだまだむける。

はて。人間の成熟とは何かと考える。
皮をむき、塩漬けにして発酵させることに近いではないかと思う。
なにかを身にまとうこと、それはむしろ成熟とは逆ではないかしら。
むいて、むいて、むいて。
それでもまだむいて、出てきた芯、それが本来の人格ではないか。
それをみつける作業が成熟なのではないか。

無論、本当の裸には誰もなれませんよ。
皮をむき続けたラッキョウは、なにもなくなってしまうようにね。
ただ。成熟は足し算と思っているヒトと、成熟は引き算と思うヒトでは、ずいぶんと違うんじゃなかろうかなんて、ラッキョウの甘酢漬けを食べながら思ったりする。

都市で不特定多数の人と関わって生きていくことは、閉塞感があり、なんとも窮屈に違いない。
本当なら好きなことを仕事にして生きていきたい。
だけど、それはやっぱり叶わない。
だったら自分の好きなことなんかに注目することは、すなわち、苦悩を増やすことではないか。
自分に無関心でいたほうがいい、そう考えるヒトがいたっておかしくない。
実際、ボクが出会ったヒトたちで、積極的にそう考えているかは別として、自分に無関心なヒトって実に多い。それはそれでいい。
だけど、人生とはいろんなことが起きる。
なかでも思わぬマイナス体験も起きる。
愛するヒトとの離別、大きな病気、大災害…。
そのとき、忘れていた死を意識する。
そして、自分の本当に好きなことは何なのか、自分はなんのために生きているのか、そんなことを考えたりする。

さて、塩漬けしたラッキョウですが、流水で塩抜きをしたら、あとは水気を拭いて甘酢に漬けます。
自家製は甘酢の塩梅を調整できるのがいい。
そんなラッキョウ、今ごろが食べごろです。

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