紫香邸になったお家のこと

みなさんこんにちは。
MAMEHICO紫香邸・店長の星野美津子です。

紫香邸がカフェとして始まって5ヶ月が経とうとしています。
その間に1000人の方にはお会いしたと思います。

古くて趣あるお家とMAMEHICOが出会ったことにより、老若男女が集まり和む、まさに和の場所になっているなあと思います。

私は桐生の生まれ育ちですが、地元のことはよく知りませんでした。
紫香邸に来るお客様が桐生の歴史などを教えてくださり、え〜!と驚いたり納得したりしています。

桐生では奈良時代から織物をしていました。
大和から移り住んだ人がいたのではと言われています。
信仰もあり修験者がたくさんいたそうで、紫香邸のあるところは吾妻山の登山口で、そこから山を4つくらい越えて日光まで行っていました。

伊勢の荘園だったという説もあり、江戸時代には幕府が桐生の織物を「西の西陣、東の桐生」と盛り上げて、風水を取り入れた桐生の町ができました。
近江、大阪、伊賀、越後屋など、いろいろなところから人が集まっていました。

戦争の時代にも、アメリカ軍が桐生のシルクでパラシュートを作りたかったので、桐生は空襲に合わなかったそうです。

桐生には群馬大学工学部があり、その教授と裕福なお嬢様が結婚するということで昭和8年にこのお屋敷が建てられました。

ご夫婦には娘が2人生まれ、孫が5人います。
そのお孫さんが5人全員、紫香邸に来てくださり、いろいろなお話をしてくれました。

「小さい頃夏休みは桐生のおばあちゃんちに来て遊んでた。吾妻山に登ったり、お祭りで八木節を踊ったり。川で遊んだり。」

「孫は1階にお布団を敷いて寝てた。大きくなると2階でおじいちゃんおばあちゃんと一緒に寝ていいよとなった。」

「庭で山羊や鶏も飼っていた。」

「戦争のときは疎開で20人くらいがここにいた。東京大空襲があったときは、100キロ離れてるのに東京の空が赤く見えたって、おじいちゃんが言ってた。」

紫香邸がいろいろな「縁」を感じる場所であるのは、目に見えない人たちの想いも集まっているのかな、と思います。

ある日は一日で50名以上のお客様がいらして、子どももお年寄りもみなさんほうじ茶やあんみつで「わ〜!」と喜んでくださいました。
いろんな人の想いを感じて胸がいっぱいになります。嬉しいことです。

ゴールデンウィークは、普段は定休日の4/30(火)〜5/2(木)も営業しますので、ぜひお立ち寄りください。
お待ちしています。

SHARE:

関連記事

RELATED POSTS