ボクの周りの若いヒトが、こんなことを口にする。
「就活で、あの会社に入れたら、絶対に幸せになれると思う」。
絶対と断定しておきながら、思うと濁しているところがカワイイ。
ほかにも、「ディズニーランドに行けたら超幸せ、ほかにも推しのライブで応援してるときも超幸せ」。
どうでもいいことだけど、銚子電鉄は「銚子合わせ=超幸せ」という切符を販売して人気だそうだ。
北海道の南十勝を走る旧国鉄広尾線には幸福駅というのも昭和の時代にはあった。
その当時も幸福切符は人気だったそうだ。いつの時代もみんな幸せになりたがっている。
そのヒトが幸せと感じている感情に、他人がとやかく言えるはずもない。
本人が甘いと感じているモナカを、甘いはずがないと力説するのは無意味である。
けれど、こと他人の幸福には、とやかく言いたがるヒトがいる。
友人の結婚式。久しぶりの女友達のテーブル。
「言っちゃ悪いけど、あの彼と結婚した優子の気持ちってわかんなくない?あれじゃ、いつまでも続くとは到底思えないよ」、小声で苦笑するワタシ。
となりの同級生も「そうだよね、いつまでも続かないね」、こちらも笑って同調してくれる。
「あすこがだめ、あすこもだめ」。
今の自分たちは棚に上げ、言い散らかしてスッキリして帰宅する。
数年後。友人からあの結婚は終わったわと聞いて、そこはシャーデンフロイデ、人の不幸は蜜の味、「やっぱりさ。慌てて結婚するとろくなこと無いよね」と、再びテーブルの同級生と笑いあった。
さて。他人に呪いをかけることは楽しい。
むかしから娯楽のひとつと数えられている。
ただ、恐ろしいのは、この娯楽。
他人にかけた呪いは、自分にもしっかりとかかってしまうという副作用があることだ。
そして、それになかなか気づけないというのも厄介なことの一つです。
他人への呪いの言葉。
その副作用は、自分が幸せになる番になると、自分にかかるように仕組まれている。
実に精巧にできている。
幸福なんてものは、神様が握る回転寿司のようなもので、じっと座っていればいつかは回ってくるものだ。
散々他人の幸福にいちゃもんつけてきたものにも、平等に「幸福寿司」は回ってくる。
あらあら。自分にも思いがけない「幸福寿司」が回って来たとあって、嬉しい、はしゃぎたい。
「超幸せ」を連発したい。
ところが。「あんたが幸せになんかなれるはずがない」。
地面から冷たい声が聞こえてくる。
靴底からいやーな冷気が足元にまとわりつく。
(そうよね。自分は幸せになってはいけないのよね、そうそう、幸せなんて長く続くわけないのだから)
冷たい声に従い、眼前の「幸福寿司」に手を伸ばせぬまま、眼の前を通過して、別なヒトの手に渡っていく。
積極的に幸福を喜べない、いやむしろ、積極的に幸福を手放そうとしてしまう。
寂しかった生い立ち、愛の欠落、自分への自信の無さが、そうさせているのかもしれない。
理由は何であれ、一生懸命生きているのに、自分が吐いた呪いの言葉に自分がかかっちゃ、あまりに救われない。
自分の糸に引っかかって身動きが取れない蜘蛛は惨めだ。
回転寿司の前で黙って座っていれば、「幸福寿司」は回ってくるのだ、板前を信じて待ってみよ。
ボクの周りの若い子には、そう教えている。