植物の哲学

花が咲く、実を結ぶ、あっという間に枯れていく。
つくづく、植物はすごいな、と思う。

たとえば。
リンゴとバナナを一緒に冷蔵庫に入れておくと、バナナはすぐに黒くなる。
これ、リンゴが出す「エチレン」という植物ホルモンの影響なんですね。
この「エチレン」。なんであえて出してるかというと、とっとと自らの成熟を促し、老化を早めているらしい。

植物にとって一番大切なことは、種を残すこと。
だから、植物は自ら、玉手箱の煙よろしく、ガスを出して老人になって、生を全うしようとしているのです。

どっかの誰かさんのように、自分がどこまで長生きできるかなどと、ちっぽけな考えを彼らはしていない。
次の世代へ自分たちの種をつなぐために、どうすればいいのか。
そうだ、とっとと死のう。潔く、崇高であるのです。

それに比べて、どこかの誰かの、なんと浅ましいことよ。
銀座の街を歩く。「いつまでも、いきいきと生きる秘訣!」。
そんな広告がどこもかしこもあって、あーほんと、目に余る。
年を取っても元気に?若々しく?前向きに生きていく、ことがそんなにも良いことなのかしら。

信号待ちをしていたら、タクシーのウインドウに、たまたま自分の姿が映った。
51歳のボクが映っている。
頭髪は薄くなり、白髪もますます増えている。
最近は老眼がひどくて細かい字が読みにくいので、老眼鏡をかけることも多い。
「老」眼鏡、ボクも立派に老いている。
江戸時代なら、隠居してもおかしくない歳だ。

若い頃は「偉そう」「生意気」と盛んに言われたボクだけど、さすがに最近は歳を重ねて、「生意気」とは言われなくなった。
顔と中身が馴染んできたのかもしれない。

なにかの本で、中国やインドでは、「老いてなお、いきいきと生きる」ことを必ずしも良いとはされないと読んだことがある。
むしろ落ち着いた老人が尊ばれると。
かつての日本も、恐らくそうだったでしょう。
無理に若さを保たせようとするその下心、結局のところ、ビジネスから生まれてるものなんであって、ボクはそういうのとは無縁の、粛々と静かに枯れていく植物のようにありたい。

いつまでもMAMEHICOがありつづけるなんてことを思わない。
ましてやこの東京で、この銀座で。
時が変われば儚く消え失せてしまうのが、喫茶店の宿命なんであって、かつての銀座には、どれだけ名店と呼ばれる喫茶店があっただろうか、そのほとんどが消えてしまった街を歩きながら、自分たちだけは永遠に続くなんてこと、思えるわけがない。
明日にだって、またコロナみたいな騒ぎが起きて、お客さんが来なくなれば、もはやそれまでってこと。

「なーに。それでも、いいじゃないか。やりきったんだ。なにひとつ綺麗さっぱり残らなくたってかまやしない」
そんなふうには、思えない、それは、どこか寂しい。

「一粒の麦死なずば、ただ一つにてあらん。もし死なば、多くの実を結ぶべし」
MAMEHICOが終わったとて、ボクたちが経験したこと、感じたこと、考えたこと、それがどこかの誰かに伝わり、残り、根を張り、そして新しい芽を出すことがあったらいいのにな、とは思う。

ところで、エチレン。
ジャガイモにとっては、逆の若返りの効果があるそうで、ポテトをアップルの近くに置いておけば、やっかいな「芽」が出にくくなるそうですよ。
なんとまあ、お試しあれ。
植物は複雑です。

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