こんにちは。MAMEHICO東京メンバーの横田理恵子です。
昨年末でお弁当クラブが一旦終了になりました。
お弁当クラブの場がなくなってしまうのは、私にとっては大変寂しいことです。
なぜなら、お弁当クラブは井川さんが私のために作ってくれた仕組みだったからです。
そこで、お弁当クラブがどのようにして生まれ、ここまで続いてきたのかを振り返りつつ、これからのお弁当クラブやMAMEHICOのことにも、想いを寄せてみたいと思います。
あれは忘れもしない2020年4月のこと。
コロナ騒ぎが始まり、東京都に初めての緊急事態宣言が発令されることになった時期です。
みなさんも仕事や生活がどうなるか、とても不安だったことを覚えているでしょう。
もちろん、私もその1人でした。
その当時、子どもはまだ3歳で、もともと通っていた保育園とは別の系列園に通うことになっていたのですが、1週間もしないうちに休園となりました。
子どもがいる共働き家庭はみなさん同じで、大人はそれぞれの部屋で仕事をし、子どもも一日中家にいるという状況でしたが、これは本当にストレスでした。
子どもに何時間もYoutubeやテレビを見せたくはないですし、でもそうしないと仕事の邪魔になる。
公園で遊ばせるなど運動も必要です。
そして一番の問題は食事、特に昼食でした。
保育園では給食が出ますが、休園中は自宅で食べさせなくてはなりません。
大人はテキトーなものを食べればやり過ごせますが(そうしたくはないですが)、子どもに毎食コンビニのおにぎりやカップ麺を食べさせたい親はいないでしょう。
かといって、限られた時間でまともな昼食を用意して食べさせるだけの余裕もありません。
1日2日ならまだしも、いつ終わるか分からない状況の中、本当に辛い毎日だったのです。
その頃、都の要請により、飲食店は時短営業や営業停止を迫られていましたが、マメヒコは相変わらず店を開けていました。
誰もいない渋谷で、唯一営業しているカフェだったかもしれません。
我が家は渋谷のマメヒコにすぐ行ける距離だったので、緊急事態宣言中も変わらず通っていました。
私と同じような人もそれなりにいましたが、ほかのお客さんはパッタリ来なくなり、行ったらお客よりスタッフの方が多いという日々でした。
自分のことも心配ですが、マメヒコがどうなっちゃうのかな、という不安もありつつ、でも井川さんとスタッフのみんなは毎日お店を開けてくれていました。
そんな非日常がはじまった頃、私や、同じようにマメヒコに通う常連さんたちに井川さんが言いました。
「お弁当を作ってあげるよ」と。
生活が一変してしまい、食事もままならない私たちに、井川さんは手を差し伸べてくれたのです。
なんて言うと大袈裟かもしれませんが、私にとっては本当に救いの手でした。
こうして2020年4月、緊急事態宣言の始まりと時を同じくして、お弁当クラブが誕生しました。
ただいま、新生・お弁当クラブを企画中です。
しばらくおやすみいたしますが、
楽しみにお待ちくださいね。