桐生に通うようになり、紫香邸の庭いじりをしている。
土を掻き、石を積み、一年中紫の花が咲くようにと願いを込めて、花壇を作ってみる。
去年の春先、剪定した木や枝を庭の隅に積んでおいたら、半年後、それがちゃんと土に変わっていたという経験をして、枯れた植物が新しい命のもとになることがやっと腑に落ちた。
頭ではわかっていたけれど、きちんと目の当たりにして、ボクはようやく自然の力を「信じられた」。
なんと愚かなんだろう。
秋には葉が色づき、どんぐりが実るコナラも数本植えてみた。
これから十数年かけて、この庭は紫香邸らしい趣に変えていくはずだ。
いまボクたちは紫香邸としてこの家を使っているけれど、これは借り物に過ぎず、次の世代に渡すためにボクはこの家をこの庭を「信じる」ことに努めなくてはにならない。
これまで、いろんな場所でボクは風を感じてきたけれど、桐生の風はボクにとって思い出深い。
渡良瀬川の橋の上を吹く春風が、白い雲を遠くに運んでいく。
麦畑の夏風は黄金色の穂を撫でていく。
お囃子の掛け声や屋台の匂いを秋風は、ボクらの庭まで届けてくれる。
晩秋の空っ風は雨戸をガタガタと揺らし、玄関の白い暖簾までも遠くに飛ばしてしまう。
だけど、裏の林の枝葉が風に揺れる音で目を覚ました朝、ボクは群馬の詩人・星野富弘さんの詩を反芻する。
雨を信じ 風を信じ
暑さを信じ 寒さを信じ
楽しみを信じ 苦しみを信じ
明日を信じる
信じれば 雨は恵み風は歌
信じれば 冬の枝にも花ひらく
びわの花の詩を初めて読んだとき、ボクは「信じる」ことの難しさにため息が出た。
たしかに、信じれば、雨は恵みで、風は歌だ。
ただし信じられなければ、雨は体を冷やす厄介ものでしかないし、風はいつもアゲインストに吹きつける。
「信じる」ことの難しさ。
半身不随という大きな困難を受けた星野さんは、その自らの困難を、神の啓示と「信じる」ことにした。
果たして、ボクに『信じる』なんて難しいことができるのだろうか?
紫香邸の庭作業から戻ったボクは、そのあと派手に風邪を引いた。
年末年始は布団の中で過ごすことになり、風の音一つしない都会のマンションのベッドで横たわっていた。
「2025年 土の時代から、風の時代へ」。星占いがそう告げている。
命を育む土から、変化を運ぶ風へ価値観が大きく変わるんだそうだ。
星の配置がそうさせているという。
そんな話がホントかどうかなんてことは関係ない。
「信じる」かどうかだけが問われている。信じれば一輪の花さえ愛。
桐生に吹く風は、すべて星野さんからのメッセージなんだろうとボクは信じたい。
信じれば、雨は恵み、風は歌。