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人間を信用しない

井川 啓央 2026年3月31日 井川のはなし #哲学

先だって家族と東京国立博物館に行ってきたんですね。

ボクは仏像が好きでして。法隆寺宝物館にはもうびっしりと仏像が並んでいて、ひとつひとつまじまじと見てきたんですが。そこでふと疑問が湧いてきたわけ。

はて。阿弥陀如来と釈迦如来って、何が違うんだろうと。

釈迦如来は、まあわかる。お釈迦様のことでしょう。ところが阿弥陀如来というのは、一体、この方、何をしているヒトなんかいなと。南無阿弥陀仏という言葉はみんな知っているのに、肝心のその中身がよくわからない。

ボクなりに仏像を眺めながら考えてみたんです、これはあくまでボクの解釈ですよ。

釈迦如来というのは、悟りを開いて、宇宙の法則というか、本当の正しさみたいなものを体得されたお方です。人間もそこに向かって修行をしながら、できれば悟りの域に達したいね、というのが仏教の大きな道筋ですね。

生きることはそもそも苦しみなわけだから、その苦しみから解放されたい、悟りたいと思うのは当然のことですから。

ただ、そのために修行しなくちゃいけない。滝に打たれるとか、断食するとか、俗世と離れたところで修行に専念するとなると、そういうことは普通のヒトにはできませんよね。

「お釈迦様のようになりたい」とどっかで思っていても、どうせ煩悩にまみれた凡人には到底たどり着けないのだから、仏教なぞ関係ないや、というマインドに普通はなってしまいます。

そこで。阿弥陀如来の出番がくるというわけです。「まあまあ、修行なぞしなくてよいから、せめて毎日ボクの名前を呼んでよ」。南無阿弥陀仏と唱えれば、それが修行したことと同じになる、というのです。

これね、詐欺師じゃないかという話に、娘となりました。散々修行しているヒトがいる横で、自分の名前を呼べば修行したことにしてやるよ、煩悩チャラにしてやるよというのは、ちょっと胡散臭いじゃないか、と笑。

まぁたしかに。けどボクはこの阿弥陀如来に、ものすごくシンパシーを感じるんですよ。阿弥陀如来は、人間を信用してはいけないと言ってるんでしょう?

「努力すれば解脱できる」「厳しい修行を経れば悟りが開ける」。そもそもその「頑張ればできるはずだ」という思い込みそのものが、もう迷いの中にあるんじゃないか。修行の道に入ったからといって悟りが開けるとは限らない。振り返って、日々の生活をきちんと送る、そのことが、どれほど難しいことか。インスタントラーメンじゃなくてちゃんと麺を茹でるとか、急須でお茶を入れるとか、報われないとわかっていながら何かをする。

好きになったヒトと別れることは避けられない。理不尽な目に遭うこともある。生まれながらに不自由を抱えて生きていかなくちゃいけない運命もある。それでも楽しく生きていく。それをちゃんとやり続けることは、とても難しいことでしょう。日々の生活の中で、南無阿弥陀仏と唱えれば、お釈迦様はその姿をちゃんと見ていて、必ずそれ相応に応えてくれますよ。

だから修行しなくても、念仏を唱えて日々の生活を大事にしなさい。すごい発明だなと思ったわけです。

俗世から離れ、高みから理想論を掲げて、日々の生活を疎かにするヒトよりも、ぼやきながら、報われないなと思いながら、それでもなんとか日常を生きていくヒトの方が、道を大きく外れないんじゃないかとボクは思う。

宗教の偉いヒトが裏でとんでもないことをしていたというようなニュースが後を絶たないけれど、俗世と離れなければ正しくいられないというのは、むしろ脆い正しさなんじゃないかとも思ったりする。

阿弥陀如来は、そういう人間の弱さをちゃんと知った上で、なんとかしよう、と言った。理想と現実の架け橋が、今の時代には必要な気がします。

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