2024.11.18 @銀座 MAMEHICO
「眠りの学校」渡部友紀さん

渡部友紀さんは、「食の会」に参加されていて、
何度かお見受けしていたんですね。

渡部さんは福島県郡山市で97年続く家具店「ラ・ビーダ」、
その社長・渡部信一郎さんとの結婚を機に、
26歳で福島県に移住されたそうです。

それから3人の娘の母として家庭を支える一方で、
老舗家具屋の存続の危機、東日本大震災、
そして福島第一原発事故、その放射能汚染からの危機を通じて、
生きるうえで何が大切なのかを、深く考えた。

いまは「眠りの学校」を主催してるらしいと聞いたので、
「なにそれ?」って色々と雑談してみました。

Vol.1

眠りの学校 渡部友紀さん

井川
じゃあ、時間になったので、ぼちぼち始めます。
みなさん、こんばんは。

今夜は「井川さんの雑談会」に、
ようこそお集まりいただきました。

あの、この雑談会。
実は最近では日本各地でやってまして。
ボクはMAMEHICOをやりながら、
かれこれもう10年以上もこんなことやっています。

何か雑談しましょう、っていうだけで対談相手を見つけて
毎回テーマもなく他愛ない話をするだけなんですけど。

どういうわけか、その気楽さと裏腹に、
とても深い話になることが多くて。

だから参加率は低いけど、参加者の満足度はとても高いという(笑)
お客は少ないけど、お客の満足度はとても高い、
まさにMAMEHICOそのものです。

一同
ハハハ(拍手)

井川
ありがとう。
ぜひみなさん、「MAMEHICOともども、井川さんも面白い」と喧伝してください。

一同
はーい(拍手)

井川
それでは今夜も早速、雑談相手をご紹介しましょう。
このために、わざわざ福島の郡山から来てくれたという奇特の方、
渡部友紀さんです。

渡部
(会場にお辞儀してステージに上る)
こんばんは、よろしくお願いします。

井川
はい、こちらこそ、雑談するために、
わざわざ銀座までお越しいただいて、恐縮です。

しかも、この雑談会が終わったら最終の新幹線で
郡山に帰るって聞いて。
いや、ほんとに申し訳ないけど、よくお越し頂きました。

渡部
いえいえ。楽しみにしてきました。

井川
あの渡部さんは、ボクが主催する「食の会」に
お越しいただいて顔見知りになって。

「あなた何してるの?」って聞いたら、家具屋の女将をしてますってことで。
さらに最近では「眠りの学校」っていう睡眠に関する活動もなさっていると。

何じゃそれと気になりまして。

この雑談会で、ちょっとそのあたりの詳しいお話を伺いたいなと。
それでお越しいただいたんです。

一同
(拍手)

渡部
よろしくお願いします。

井川
さて。
郡山からお越しいただいたということですが、ご出身が郡山なんですか?

渡部
いいえ、出身は茨城です。

井川
あら、ではどういう経緯で郡山へ?

渡部
結婚した相手が、郡山で100年続く家具屋の息子だった、
そういう経緯です。

井川
あぁ、なるほど。
ご主人がずっと郡山の家具屋さんだったんですか?

渡部
夫の父はそうです。もともとは小野町にある、
地元の暮らしを支える家具屋の家柄だそうです。
その家具屋では、30人ほどの職人たちと寝食を共にしながら、
指物職人を育てていたと聞きました。

井川
はい、なるほど。

渡部
それで夫のお父さんは、高度経済成長期に入って、
これからは小野町から、よし郡山さ出るべってなって。

井川
郡山さ出るべ(笑)

渡部
中通りの郡山は「商都郡山」と呼ばれるほどの都会なんです。
だから福島のヒトたちにとっては、郡山に出るっていうのが、
ひとつのステータスだったわけですよ。

井川
ああ、はい。
時代の変化に合わせて、郡山で家具を売り始める。
うまく行ったんですか?

渡部
最初は行ったんですよ。
義理の父の時代は、日本経済の勢いがあったし、
人口も増えていたから。
順調に家具事業は拡大できたわけですけど。
ところが、夫は行き詰まりを感じていました。

夫はその頃、家具屋として、
あるメーカーの家具を日本一売ってたんです。
だけど、郡山に大手の家具業者さんが入ってきた途端、
そのメーカーさんから、「もうおたくとは取引しない」
と言われてしまって。

井川
あらあら。それはまた。
そのメーカーの家具を一番売っていたにも関わらず?

渡部
家具メーカーもなかなか売れない時代に突入して、
余裕がなかったんでしょうか。
昭和はいいとして、平成に入ったら、

核家族化も進み、家具を買うっていうヒトも、
少なくなってきたわけです。

井川
住環境も、ライフスタイルも大きく変わって、昔ながらの家具の需要って減りましたもんね。

ちょっとうちの話をすると。
MAMEHICOではお店の家具は、棚からイス・テーブルまで、
特注で作ってもらってるんです。
広葉樹の無垢材で、こちらでデザインして、
飛騨高山の工房に出してるんですけどね。

家具の注文はぐっと減ってると、
工房の人たちは嘆いてましたから、事情はわかるんですよ。

まぁ、うちにある大きな棚なんか外車が買えるくらい、
値の張るものですからね。

世の中が不景気だと、「お値段以上に」流れるのは、
仕方ないのかもしれない。

渡部
そういう時代の背景もあって、奮起した夫は、
もうよそのメーカーの家具を仕入れて売るのはやめるぞ、
オリジナル家具を作るんだと言い出して、作り始めたんです。

井川
へぇ、面白い。

渡部
自分たちは材料の見立てだってできるし、
かつては職人を育ててきた、
そういう力もあるんだからと。

井川
池井戸潤の小説みたいだね(笑)

渡部
一つひとつオーダーメイドで家具を作ろうと。

井川
んー。
あのね、これみなさん、お気づきですか?
ちょっとこれ、矛盾してるんですよね。

ご主人は高い家具が売れない時代に入ったことは、
家具屋として重々わかっている。

渡部
はい、それはもう重々。

井川
それなのに、「よし、丁寧に作った高い家具を作って売るぞ」って、
言い出した。

これはその、ちょっと頭おかしい、
みなさん、いい話だと思って油断してるけど。
そのことにお気づきです?

一同
ハハハ(笑)

井川
ちょっと整理します(笑)

時代は高度経済成長が止まっている。
少子高齢化、結婚もしない、子どもも産まない、
長きにわたってのデフレも続いてる。

「お値段以上」が当たり前になって、
安く性能の良い家具を作って売る量販店が出てきた。
大手の効率性や価格競争に、
小さなところが対抗するのは難しくて、売上が伸びる保証もない。
だから家具屋として完成品を販売しても売る限界がある。

その状況を打開しようと、
「丁寧に自分たちで作った家具を作り売ろう」と決意したと。

ねっ、おかしいでしょ。

一同
(うなずく)