MAMEHICOの糸島開店に向けて準備を進めている中で、
とても魅力的な3人とボクは出会いました。
みなさんそれぞれが、
糸島の「自然」や「地域」と向き合いながら、
個性的なスタイルで仕事をしています。
例えば、学生寮を運営する大堂良太さん。
大学を卒業後、東京での仕事を経て、
学生寮やカフェ、
本屋さんを糸島で手掛けています。
学生や地域の方々が集まり、過ごせる空間を町に作り、
彼が生み出した寮やカフェ、本屋は、
そこで暮らす人々にとって、温かく、
ほっとできる「居場所」になっている。
また、糸島の山を守りながら、
地元の木材で家を作る加賀田憲治さん。
ずっと糸島で大工をしてきたベテランで、
笑顔が人懐っこい棟梁です。
加賀田さんの仕事は、糸島の自然資源を活かしながら、
未来の糸島を守り育てる活動でもあり、
その1つずつに、地元への深い愛情が込められています。
そして、農家として活動する若松潤哉さん。
かつて東京で航空整備士として働いていた若松さんは、
家族と糸島に移住し、甘夏やオリーブを育てながら、
依存しない農業を目指し、実践しています。
こうした3人と雑談することは、
糸島という土地の奥深さを感じる経験でした。
MAMEHICO糸島が、
彼らのような素敵な人々との出会いとともに、
新しい場として育っていったらと思っています。
MAMEHICO 井川啓央
大堂
自分が将来独立して何かやるんだったら、
教育×学生寮っていう切り口で、
学生の後押しをしたいなと思って、脱サラして。
井川
どうして脱サラしてまで、寮を作りたかったんですか?
大堂
私は九大の出身で、当時、学生寮にずっと住んでまして。
自分が寮にだいぶお世話になったというのがあって。
井川
だとしても、そんなに学生寮っていいですか?
大堂
やっぱその学生時代の寮暮らしの原体験が、
すごく思い出深いんですよ。
帰ったら「ただいま」とか、
「おはよう」とか挨拶があって。
一緒にカレー作ってみんなで食べたりとか、
恋愛話したりとか。
将来やりたいこと熱く語ったりとかですね。
1つ屋根の下の疑似家族みたいなのが楽しかったんです。
井川
大堂さんの子ども時代っていうのかな。
育った生い立ち的にそういう大家族だったんですか?
それとも、全く真逆の核家族で、
なんかもう寂しかったから、大家族を寮で体験して、
嬉しくなってそうなったのか、どっちなんですか?
大堂
私の生まれは熊本で、普通の戸建ての、
普通の家で育ちました。
だけど──。
井川
だけど?
大堂
小1から小3まで喘息がひどくて。
井川
小児喘息?
大堂
それで天草の、喘息学級センターっていう、
北海道から沖縄までの重度の患者さんが
40人ぐらい集まる、
療養施設に3年間暮らしてたんですよ。
井川
えー。ああ、なるほど。
大堂
熊本では喘息がめっちゃひどくて入院ばっかりしてて。
天草は空気がきれいだからと、
そこで集団生活をすることになって。
今思い返せば、
そこで集団生活の楽しさを覚えたんだな、多分。
井川
天草の集団暮らしが、大堂さんの根幹にあるんだ!!
大堂
確か、そこは幼稚園生から中学3年生までいたんですよ。
病棟というよりね、みんなで朝ごはん食べて、
夏はプール入ったり、冬は寒中水泳やったりですね。
なんかすごく楽しかった。
井川
そういう体験は大きいね。
大堂
そうですね。
東京にいた時も、私は社員寮に入ってて。
井川
あぁ、また寮。寂しがりだね(笑)
大堂
そうなんですよね(笑)。
そこを出て、ひとり暮らしもしてみたんですけど、
やっぱり飽きちゃって。
起業を志す、もしくは起業したヒトが
切磋琢磨するっていうコンセプトの、
シェアハウスに2年ぐらい、
結婚する直前まで住んでました。
井川
へぇ、どこまでも共同生活(笑)
ボクは寮に入りたい気持ちが薄いんで。
色んなヒトと暮らすってことが楽しいの?
大堂
ちょっと話したいんですよ。
なんかこう、ふらっと雑談ができる。
そういう関係が、すごく自己存在感が高まるというか。
井川
自分がここにいてもいいんだっていう?
大堂
そういうベースがあればこそ、
働こうとか頑張ろうみたいな気が起きるんです。
他のヒトも、そうだろうなみたいな思いがあって、
寮を作ってるっていう。
井川
いまのヒトは、承認欲求を満たすためにSNSを
やってるって言われてるけど。
マズローの5段階欲求によると、
承認欲求の前に所属欲求っていうのがあると。
大堂
はい。
井川
案外、所属欲求が満たされてないんじゃないかと。
どこにも自分は属せてない、っていう不安。
それってメディアは問題視しないけど、
実は大きいんじゃないかとボクは思ってます。
井川
大堂さんが、加賀田さんと
知り合ったきっかけってなんなんですか?
大堂
私も糸島には、ほとんど地縁がなくて。
古民家を見つけたときに九大出身の近藤さんていう
女性の建築設計士さんと繋がって、
糸島だったら加賀田さんなら
施工を受けてくれそうってなって。
井川
加賀田さんなら(笑)
大堂
面識なかったんですけども、
加賀田さんに一度来てもらったら、
若い人のためにいっちょやろうか、って言ってくれて。
なんというお方だと(笑)
井川
うちとおんなじ(笑)
大堂
そうなんですか?どんな出会いだったんですか?
井川
加賀田さんと初対面の時、驚いたんですね。
面識もないのに、加賀田さんはフラットに
「何がしたいのか」と聞いてくれて、
「協力できることはするから」と言ってくれたわけ。
加賀田
あれから1年くらいやねぇ。
あんたが言うたので覚えてるのは、
糸島の杉材を使いたいってことやった。
井川
そうです。
加賀田
戦後、糸島の山には杉がよう植えられたけど、
今その杉が成長しすぎて使うのが難しくなってきとる。
特に、杉は60年から80年で切らないと、
木が高くなりすぎて使いにくくなるから
使うには今がちょうどええ時期。
井川
だったら、糸島の杉を使いますよ、って言ったんでした。
加賀田
だったら、やりましょうとなったね(笑)。
井川
ボクは内装には広葉樹、
例えばナラやタモといった木材を
使ってきたんですね。
杉を使うと、なんとなく和食屋さんみたいに
なっちゃいますから。
だけど、加賀田さんのはなしで、
地域資源を活かして、林業の活性化にもつながるという
話を聞いたから、
では糸島の杉を使いましょうと。
井川
ボクも大堂さんも、
加賀田さんならやってくれそうと思って(笑)
それで危険な橋をわたってもらったわけですが。
加賀田
ただの地元の工務店なだけだけど。
井川
でも、昔ながらの工法で、
みんながみんな家建ててる訳では無いでしょう?
加賀田
いまは9割がプレカットの材を使うね。
大手メーカーさんは、東南アジアの方が働いても、
印のところにビス打ったら家は建てられる。
そういうシステムを、もう作り上げてるからね。
井川
日本人の大工さんでもないんですね。
加賀田
それはそれで価格が下がったりして、
若い方でも手頃な家が短期で手に入るっていう、
そういう利点はあるんだけど。
井川
はい。
加賀田
そればっかりだと大工の技術とか、
そういうものがなくなってしまう。それはいかんなと。
だけど、他の工務店と付き合いよると、
まったくそこら辺の話が合わんのよ。
井川
話が合わないのはどうして?
加賀田
みんながみんなそうならないのには、
やっぱり経営的なもんがあるんよね。
井川
お金ですか?
加賀田
建売なら3ヶ月くらいで完成して、
すぐお金が入ってくるっていうサイクル。
そのサイクルでみんな一生懸命やってるわけよ。
ところが、うちの場合は、
まず宮大工や数寄屋大工を集めて、
半年かかったり、今回みたいに1年かかる場合もある。
井川
うん、うちも一年はかかってますもんね。
加賀田
今回も、宮大工を九州7県と山口から呼んだ。
そうやって、とにかく若手と糸島の山を育てないかんと。
だけど業者からすると、
「めんどくさかろ、やめとこ」ってなるわね。
井川
加賀田さんとボクとで森に行って、
この2月の新月の日に杉を切り出したんですよ。
加賀田
今回は1本だけ、80年くらいの杉を切ったんだけど。
井川
木を切る時に、びっくりしたのは、
まず木に抱きつくんですよ。
今日までありがとうって。
お神酒とか、塩とか、お米を捧げて。
いよいよ切りますよって。
でも、これもボクたちのために
儀式的にやってくれたけど、
実際はこんな風に、いちいちやってられない。
加賀田
ほんとは新月伐採っていうのは、
世界的にやられてるの。
新月の時は、木が水を吸わない、
成長が止まるから虫が付かない、腐らない。
逆に、満月になると、ダーッと水管で水を吸うて、
養分を枝まで伸ばす。
だから、満月の時に切った木は、もう本当に水っぽい。
大堂
そうですか。
加賀田
だから極力、満月の前後3日間ぐらいに。
ただそれが1番いいのはわかってるけど、
もう満月の時も切って材を出す、
それが木こりの仕事だから。
やっぱりそこは、難しいところであるけど、
今回は1本だけ梁に使おうということになったんで。
井川
そうでした。
加賀田
じゃあ、新月に切ろうと。
やっぱりクレーンで釣るとね200kgぐらいだった。
普通切ったら300kgぐらいある木だからね。
大堂
100kgも軽かったんですね。
井川
ボクが加賀田さんに、
糸島の杉でやりましょうって言ったのは。
やっぱりカフェって、
普通のヒトがなにげなく触れられるっていうのが
いいところで。
森のはなしも、大工さんの状況も。
MAMEHICOは、カフェはメディアのひとつだ、
と始めたもんだから。
店にその杉の木があって、目に触れることが、
まず最初の最初じゃないかって。
大堂
なるほど。