正しさの名の下に

東北の田舎駅で、列車を待つ間、古い小さな喫茶店に入った。
店の奥の席に付き、珈琲を頼んだ。
老いた女性のマスターがやる気なく下がっていった。

その店は、静かな店内に音楽もかけず、カウンターの中、テレビがぽつんと点いている。
ワイドショーが賑やかに騒いでいるなか、老婆が珈琲を淹れている。

店内は、重たい空気が漂っている。
この街も、大きな時代の変化に耐えきれない未来が訪れることを、市民もみな察知しているのだろうか。

「正しく生きなくてはなりませんよね」
センスの欠片もない言葉を、大声を出して叫んでいる司会者が笑いながら映っている。
周りもそれにつられて、ヒトの失敗を批判し、高いところから道徳を説いている。

こういう人間たちに限って、自分の行動はハチャメチャ、それでいてまったくの反省もなし。
厚顔無恥、おいどの口が言うんだ、に決まっている。

テレビを見ながら、ぼんやりと苦い珈琲をすすった。
ボクは、正しさを声高に訴えるヒトと関わらないよう、慎重に生きてきた。
かつてはこういうタイプがいたけれど、最近は見かけない。

だから、そう気にしなくてもいい、問題はだ。
「正しさを声高に訴える」組織だ。
令和のいまは、個人よりも正しさを声高に訴える組織で街は溢れかえっている。
こやつこそめが悪の権化なのだと、ボクは心から思う。
彼らはボクの生活にすら図々しく介入してくるから、ほっとくわけにもいかない。

「組織」は、今日も表向きの正しさを掲げて、人々に自分たちの不誠実さを押し付け、ボクたちに従わせようとしてくる。
その裏では、自分の不誠実さを正当化する屁理屈をこねるのに必死に決まっている。
あんたたちの不誠実に、なんでわざわざ従わなくちゃいけないんだ、と珈琲を飲みながら思うも、この組織で回っているこの国では関わらずに生きるのは難しい。

不誠実な正しさを真に受け、生きづらがっている若者が、ボクの周りにわんさといる。
「いまの時代は、もっと不真面目に生きないと死ぬよ」と忠告してみるが、一切の効果なし。
彼ら、彼女たちはすっかり洗脳されてしまっているので、「不真面目に生きないと死ぬ」の意味を理解する気がない。

テレビでは相変わらず、自分の欲望や衝動に流されたヒトを「彼の弱さ」だと司会者は非難している。
今後は禁欲的で、清く正しい生き方を選ぶよう、説いている。

ボクはコチンと引っかかった。
司会者の言った「彼の弱さ」という言葉が。

「自分の欲望や衝動に流される弱さ」を弱さというなら、「自分の本音や違和感を押し殺し、正しさを演じているあなたの弱さ」はどう考えるのかと司会者に問いたい。
この二つの弱さを比べるとすれば、後者のほうが始末に悪いのではなかろうか。

だって、である。

「正しさ」を選んだ「弱さ」は見えにくいからさ。
自分の欲望を抑えた「強さ」として、間違って賞賛されてしまうからさ。
それは「強さ」なんかじゃない、「弱さ」の裏返しにすぎないじゃないか。
それをさも「強さ」と錯覚してはダメじゃないか。

表面を保つために、真の自分から目を逸らしてことを「強さ」と錯覚する。
そういう人生を歩めば、後戻りが難しくなるだろう。
ものごとの本質が見えぬまま、賞賛にぶら下がった年月は恐ろしく残酷に、晩年、その時間を遡りはじめるだろう。

お会計を終えて、駅前商店街を駅に向かった。
概ねシャッターが閉まる中、チカチカと眩しい、自分だけ目立てばいいという店のカンバンの店だけが開いている。

「不誠実な正しさ」から身を守るには、どうすればいいのか。
学校では教えようもないのだから(学校そのものが当事者なので)、自分の頭で考えるほかないだろうなと思う。

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