テントウムシは草の茎を、
せっせと昇っていました。
枝が分かれたところに
さしかかったとき、
テントウムシは立ち止まりました。

そして一呼吸つくと、
高く伸びる枝を選び、
上を目指すのでした。
テントウムシの固い羽根から、
柔らかいレースの羽が広がり、
細かく震えると、
世界の一切の音は無くなりました。
テントウムシは太陽に向かって
飛んでいくのでした。
チョンボはテントウムシを
追いかけて歩き出しました。

団長さんは象の国に向かう
列車の中にいました。
列車の窓から、まぶしい朝日を
顔に受けていました。
窓に向かった顔の半分が、
温かく気持ちがいいのでした。
団長さんは頬杖をつきながら、
シューマンの交響曲「ライン」を
口ずさんでいました。
そして、懐かしいチョンボのことを
思い出していました。

サーカスはもうないのでした。
動物保護団体からの抗議が激しく、
年々売り上げが下がり、もはや
続けられなくなっていたのでした。
団長さんはもう団長さんではなく、
いまはなにもすることがないのです。

列車の窓から
大きな川が見えてきました。
団長さんは窓を開け、
身を乗り出しました。
たくさんの象の群れが見えました。
いよいよ象の国に着いたのだなと、
団長さんは思いました。

団長さんはチョンボに
会いたいと思っていました。
しかし、こんな地平線まで
続く草原の中から、一頭の小象に
会えるはずなどないのでした。
団長さんは自分のやっていることが、
滑稽で可笑しく笑いました。

それでも。
団長さんが象の国行きの
列車に乗ったのは、当てのないものを
掴んでみたいという衝動を
抑えられなかったからです。
列車はカーブに差し掛かったところで
急ブレーキを踏みました。
団長さんは、思わず椅子から
転げ落ちてしまいました。
間もなくして、
車内アナウンスがありました。

「お客様、急ブレーキを踏み、大変申し訳ありませんでした。
お怪我などされてませんでしょうか。
ただいま、この先で、小さな象が線路を横断しておりました。
それゆえ運転士がただちにブレーキを踏んだとのことです。
象が通過するのをしばらくお待ちください」

この国では人間より
象のほうが偉いので、
乱暴にどかすことはできません。
自然にどけるのを待つほかないのです。
「弱ったなー」という
車掌さんの声が聞こえました。

団長さんはふと胸の
ポケットのところに、
一匹のテントウムシが
止まっていたことに気が付きました。
団長さんはテントウムシを
指先に移すと、窓を開け
「ほら、お飛び」と促しました。

テントウムシはゆっくり飛び立つと
旋回し、社内に戻ってきました。
そして団長さんの胸に
再び止まるのです。

「どうしたんだい」

団長さんはテントウムシを
逃がそうと、外に出ました。
初めて団長さんは
象の国に降り立ちました。
足元から大地の響きを感じました。

テントウムシは飛び立つと、
線路をふさいでいる小象のところまで
飛んでいくのでした。
団長さんはそのままついていくと、
そこにはチョンボが
立っていたのでした。

テントウムシはチョンボの
赤い瞳の前でふと消えました。
団長さんはチョンボを見つめました。
この赤い瞳はチョンボだ。
団長さんはすぐに見抜きました。
チョンボもじっと、
団長さんを見ていました。
団長さんは、にっこりと
チョンボに近づくと、

「レディス アンド ジェントルマン。ようこそ、夢の国、我がサーカスへ」

とおどけて見せました。

「こちらにおりますのは、我がサーカス一の人気者、象のチョンボでございます」

とお辞儀をしました。
車掌が苛立ったのか、
大きな汽笛を鳴らしました。

「いけない。さぁ、いい子だチョンボ、こちらにおいで」

団長さんが言う通りにチョンボは、
団長さんについていきました。
線路から象が外れたので、
車掌と運転士はとても喜び、
さっさと団長さんを置いて
行ってしまいました。

「チョンボ、よかったら、私を君の国に案内しておくれ」

動かなかったチョンボですが、
しばらくして頭を下にさげ、
しゃがみ、鼻を団長さんの
ところまで伸ばしました。
団長さんはチョンボの上によじ登りました。

チョンボは団長さんを乗せて、
草原の中を歩いたのでした。
その日一日、歩いたのでした。
そして夜も木の下で
一緒に眠ったのでした。
ぐっすりと眠ったのです。
団長さんは、その間、
ひとことも話しませんでした。

やがて、朝日が地平線に昇りました。
団長さんはこの世界の
朝を見ていました。

チョンボの心臓は大地につながり、
低いドラムのような
リズムを刻み始めました。
真っ赤な血液が体全体に流れ、
その音は大地を削る滝のようです。

大きな樹々が、一斉に
地下から水を汲み上げ始め、
葉先の隅々まで葉脈を通して
行き渡らせている。
その音は、さながら
ファンファーレのようです。

鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。
サルたちの雄たけびも聞こえてくる。
ライオンの唸りも聞こえてくる。
みどりの蕾から、真っ白な花弁が
開く音も聞こえてくる。

風が吹き始めました。
雲が流れ、空が、あぁ空が、
オレンジとも青とも赤とも紫とも、
とにかく美しいとしか
形容しようのない空が、
チョンボの頭上に現れたのです。

団長さんはその美しさに
圧倒されました。
そして、決意をしたように
チョンボに告げました。

「チョンボ、もう私とはお別れだ」

チョンボは不思議そうな顔をしました。
団長さんは背中を向けると、
ぽつりとこんなことを言いました。

「私は君に会えるとは思わなかった。ありがとう。
君が導いてくれたんだね。
こんな奇跡があるなんて人生とは不思議なものだ。

しかし、ここで、君とはさようならだ。
もう私はね。団長さんでもなんでもないんだよ。
そして君も、うん、チョンボではない。

とうにサーカスは終わったのだ。

星を見ながら夜中、君と一緒にやっていたときのことを思い出した。
あぁ。みんなのことを思い出したんだ。
楽しかったね。涙が止まらないのさ。
いやなことなどすべて忘れて、
楽しかった時のことしか思い出さないんだからね」

チョンボは胸が痛みました。

「ここは美しいところだ。
さぁ、小象ちゃん、自分のおうちにお帰り。
さようなら。さようならチョンボ。
どうか幸せな人生を送りたまえ」

団長さんはそういうと、
独りで歩き出しました。
後ろ姿を見ると、
泣いているようにも見えました。
チョンボだって、本当は団長さんに
会えた嬉しさでいっぱいでした。
これからもずっと
一緒に居られたらどれほど楽しいか。
サーカスのあの頃に戻れたら、
どんなに嬉しいか。
チョンボは大きな声で、
団長さんを引き留めました。
団長さんもチョンボの
そんな大きな声を聴いたのは
初めてでしたから、驚きました。

そして団長さんは、
生まれ変わったチョンボを見ました。
そして、チョンボにこういうのでした。

「あぁ。チョンボ
なんと世界は美しいことか」

そういうと、団長さんは
チョンボのもとに駆け寄りました。

草原に朝日が昇っていく。
太陽が地球を回っている。
美しい音、美しい色、美しい風、
美しい水で満たされている。
団長さんもチョンボも、儚くも脆い。
そして、世界は儚くも脆い
あなたがいるからこそ美しい。

―おわり。

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【小説】 ションボリ象のチョンボ
マメヒコのオーナー、井川啓央による児童文学。役立たずのサーカスの子象チョンボの切ない物語。回覧板(メール)で不定期に連載しています。
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mamehico井川さんの本音テントウムシは草の茎を、 せっせと昇っていました。 枝が分かれたところに さしかかったとき、 テントウムシは立ち止まりました。 そして一呼吸つくと、 高く伸びる枝を選び、 上を目指すのでした。 テントウムシの固い羽根から、 柔らかいレースの羽が広がり、 細かく震えると、 世界の一切の音は無くなりました。 テントウムシは太陽に向かって 飛んでいくのでした。 チョンボはテントウムシを 追いかけて歩き出しました。 団長さんは象の国に向かう 列車の中にいました。 列車の窓から、まぶしい朝日を 顔に受けていました。 窓に向かった顔の半分が、 温かく気持ちがいいのでした。 団長さんは頬杖をつきながら、 シューマンの交響曲「ライン」を 口ずさんでいました。 そして、懐かしいチョンボのことを 思い出していました。 サーカスはもうないのでした。 動物保護団体からの抗議が激しく、 年々売り上げが下がり、もはや 続けられなくなっていたのでした。 団長さんはもう団長さんではなく、 いまはなにもすることがないのです。 列車の窓から 大きな川が見えてきました。 団長さんは窓を開け、 身を乗り出しました。 たくさんの象の群れが見えました。 いよいよ象の国に着いたのだなと、 団長さんは思いました。 団長さんはチョンボに 会いたいと思っていました。 しかし、こんな地平線まで 続く草原の中から、一頭の小象に 会えるはずなどないのでした。 団長さんは自分のやっていることが、 滑稽で可笑しく笑いました。 それでも。 団長さんが象の国行きの 列車に乗ったのは、当てのないものを 掴んでみたいという衝動を 抑えられなかったからです。 列車はカーブに差し掛かったところで 急ブレーキを踏みました。 団長さんは、思わず椅子から 転げ落ちてしまいました。 間もなくして、 車内アナウンスがありました。 「お客様、急ブレーキを踏み、大変申し訳ありませんでした。 お怪我などされてませんでしょうか。 ただいま、この先で、小さな象が線路を横断しておりました。 それゆえ運転士がただちにブレーキを踏んだとのことです。 象が通過するのをしばらくお待ちください」 この国では人間より 象のほうが偉いので、 乱暴にどかすことはできません。 自然にどけるのを待つほかないのです。 「弱ったなー」という 車掌さんの声が聞こえました。 団長さんはふと胸の ポケットのところに、 一匹のテントウムシが 止まっていたことに気が付きました。 団長さんはテントウムシを 指先に移すと、窓を開け 「ほら、お飛び」と促しました。 テントウムシはゆっくり飛び立つと 旋回し、社内に戻ってきました。 そして団長さんの胸に 再び止まるのです。 「どうしたんだい」 団長さんはテントウムシを 逃がそうと、外に出ました。 初めて団長さんは 象の国に降り立ちました。 足元から大地の響きを感じました。 テントウムシは飛び立つと、 線路をふさいでいる小象のところまで 飛んでいくのでした。 団長さんはそのままついていくと、 そこにはチョンボが 立っていたのでした。 テントウムシはチョンボの 赤い瞳の前でふと消えました。 団長さんはチョンボを見つめました。 この赤い瞳はチョンボだ。 団長さんはすぐに見抜きました。 チョンボもじっと、 団長さんを見ていました。 団長さんは、にっこりと チョンボに近づくと、 「レディス アンド ジェントルマン。ようこそ、夢の国、我がサーカスへ」 とおどけて見せました。 「こちらにおりますのは、我がサーカス一の人気者、象のチョンボでございます」 とお辞儀をしました。 車掌が苛立ったのか、 大きな汽笛を鳴らしました。 「いけない。さぁ、いい子だチョンボ、こちらにおいで」 団長さんが言う通りにチョンボは、 団長さんについていきました。 線路から象が外れたので、 車掌と運転士はとても喜び、 さっさと団長さんを置いて 行ってしまいました。 「チョンボ、よかったら、私を君の国に案内しておくれ」 動かなかったチョンボですが、 しばらくして頭を下にさげ、 しゃがみ、鼻を団長さんの ところまで伸ばしました。 団長さんはチョンボの上によじ登りました。 チョンボは団長さんを乗せて、 草原の中を歩いたのでした。 その日一日、歩いたのでした。 そして夜も木の下で 一緒に眠ったのでした。 ぐっすりと眠ったのです。 団長さんは、その間、 ひとことも話しませんでした。 やがて、朝日が地平線に昇りました。 団長さんはこの世界の 朝を見ていました。 チョンボの心臓は大地につながり、 低いドラムのような リズムを刻み始めました。 真っ赤な血液が体全体に流れ、 その音は大地を削る滝のようです。 大きな樹々が、一斉に 地下から水を汲み上げ始め、 葉先の隅々まで葉脈を通して 行き渡らせている。 その音は、さながら ファンファーレのようです。 鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。 サルたちの雄たけびも聞こえてくる。 ライオンの唸りも聞こえてくる。 みどりの蕾から、真っ白な花弁が 開く音も聞こえてくる。 風が吹き始めました。 雲が流れ、空が、あぁ空が、 オレンジとも青とも赤とも紫とも、 とにかく美しいとしか 形容しようのない空が、 チョンボの頭上に現れたのです。 団長さんはその美しさに 圧倒されました。 そして、決意をしたように チョンボに告げました。 「チョンボ、もう私とはお別れだ」 チョンボは不思議そうな顔をしました。 団長さんは背中を向けると、 ぽつりとこんなことを言いました。 「私は君に会えるとは思わなかった。ありがとう。 君が導いてくれたんだね。 こんな奇跡があるなんて人生とは不思議なものだ。 しかし、ここで、君とはさようならだ。 もう私はね。団長さんでもなんでもないんだよ。 そして君も、うん、チョンボではない。 とうにサーカスは終わったのだ。 星を見ながら夜中、君と一緒にやっていたときのことを思い出した。 あぁ。みんなのことを思い出したんだ。 楽しかったね。涙が止まらないのさ。 いやなことなどすべて忘れて、 楽しかった時のことしか思い出さないんだからね」 チョンボは胸が痛みました。 「ここは美しいところだ。 さぁ、小象ちゃん、自分のおうちにお帰り。 さようなら。さようならチョンボ。 どうか幸せな人生を送りたまえ」 団長さんはそういうと、 独りで歩き出しました。 後ろ姿を見ると、 泣いているようにも見えました。 チョンボだって、本当は団長さんに 会えた嬉しさでいっぱいでした。 これからもずっと 一緒に居られたらどれほど楽しいか。 サーカスのあの頃に戻れたら、 どんなに嬉しいか。 チョンボは大きな声で、 団長さんを引き留めました。 団長さんもチョンボの そんな大きな声を聴いたのは 初めてでしたから、驚きました。 そして団長さんは、 生まれ変わったチョンボを見ました。 そして、チョンボにこういうのでした。 「あぁ。チョンボ なんと世界は美しいことか」 そういうと、団長さんは チョンボのもとに駆け寄りました。 草原に朝日が昇っていく。 太陽が地球を回っている。 美しい音、美しい色、美しい風、 美しい水で満たされている。 団長さんもチョンボも、儚くも脆い。 そして、世界は儚くも脆い あなたがいるからこそ美しい。 ―おわり。 ★Google+にて、全話お読みいただけます↓