6.jpg1947年大樹町生まれ。十勝・大樹町、養豚家。源ファーム代表。
豚にホエー(乳精)を飲ませて育てるホエー豚を平成15年より飼い始める。
現在はホエー豚研究会会長。

会社人として決まった給料を決まった日にもらい、
さほど楽しいなどということはなく、
かといえつまらぬということもなく、
なんとなく時間内に仕事をし、
こんな仕事に志を持てという部長の気が知れない、
ワタシを過小評価する会社に苛立つ日々、
幾年が過ぎたある日、
ひょんなことから打ち込める仕事が運良く見つかって、
さぁさぁ、見てろ見てろ、入社してはじめての高揚、
意義ある深夜帰宅が続き、いよいよだぞっ!
賞賛を手にする前で部署が変わり、
志半ばでその夢はだれかに託され、
託した相手はそれがだれかの夢だったとはみじんも思っておらず、
だったらオレがやり遂げたかったと石を噛むもむなしく、
次なる部署は定時帰宅がモットー、
私鉄に揺られ、自分は果たしてなにをしてきたんだろう、
なにをしていったらいんだろう、
つり革にもたれながら、
まぁ給与が減ったわけでもないし、手当もわずかに増えた、
次男坊のサッカーのコーチも忙しくなってきたから、
ちょうどいいとも言える。
改札を出てバスの列まで走り、新興の宅地に買ったわが家まで、
プリウスまで、にわかガーデニングまで、
妻まで子供まで、同居の母まで23分、木枯らしに襟立て坂道を上っていく。

じっとほほに手を当て聞き、聞き終えると、首をすくめ、ニタッと笑いながら、きっとこう答えるだろう。

12.jpg「サラリーマン人生が幸せなのか、ボクみたいのが幸せなのか。そういうのはわかんないよ。
けど。
豚屋って言うのはだれかと代わるなんてわけにもいかないし、
失敗したら全部自分の身に降りかかる。

うまくいってたとしても過去の失敗の穴埋めで手一杯。

志を貫いてますね、なんて言われるけど、やろうと思っていたことがまだ途中なだけだよ。
生ハム作りもまだまだ完成途上だしね。
やめるにやめられなかった。
こういう生き方しか、ボクにはできなかっただけ」

サラリーマンをやめ、養豚業を始めたゲンさんにとって、この30年は失敗の連続だった。
それでも。

いまではホエー豚の先駆者として、全国から注文はひっきりなしだし、念願だった生ハムもなんとか製品化にこぎ着けた。
後継者もできたし、端から見ればうらやましいほど順風だと思われている。

「成功?そんなこと全然無いわよー、いつも家族の靴下は穴だらけ。子供たちはどうしてうちはこんなに貧乏なのって言いながら育ったんだから」
と奥さんは困った顔で笑う。

ゲンさんは時々「オレはただただラッキーだった」と言う。
成功したとかいう世間の風評を気にとめているようには見えない。

北海道、大樹町。
大美浪源(ハジメ)さんはこの町で生まれ、子供のころからゲンちゃん、と呼ばれてきた。
だから源ファームは、ゲンファーム。
ゲンさんの祖父母は岩手と山形から大樹町に来て開墾をはじめた。

「小さい頃は大事にされ、甘やかされて随分我儘に育ったよ」

学校に行く前に畑で仕事をし、帰って来てからも祖父母の畑仕事を手伝った。
農家は皆、卵を取るために鶏を飼い、肉を取るために豚を飼い、乳を取るために牛を飼っていた。
日給の鶏。月給の豚。年給の牛。
自分たちで食べるものは全て自分たちで育て、買わなくてはいけないものは豚や牛乳を売って得た金銭で手に入れた。
当時、「開墾の始まりは豚と一つ鍋」という言葉があった。
豚と同じ鍋から食べ物を分かち合う。
開拓時代の入植者にとって、豚は身近で必要なものだった。

正月、各農家が毎年持ち回りで豚を1頭だけ潰し、ごちそうとしたのは北海道では普通のことだ。

「うちは川沿いにあったんだよ。
当時は川に沿って入植したからね。
物の流通も川を利用した。
だからね。
川が氾濫するでしょ。そうすると牛乳を売りに行けなくなるんだよね。
トラックの物流が当たり前の時代からは信じられない話しだよね。
でも、どの家も貧しく、どの家も同じような生活をしていたから、今に比べると、とても暮らしやすかったよ」

昭和30年頃は全盛期だった養豚家、豚屋さんも、今では源ファームを含め、2軒まで減った。

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mamehicoヒトヒコヒトヒコ14週:大美浪源さん1947年大樹町生まれ。十勝・大樹町、養豚家。源ファーム代表。 豚にホエー(乳精)を飲ませて育てるホエー豚を平成15年より飼い始める。 現在はホエー豚研究会会長。 会社人として決まった給料を決まった日にもらい、 さほど楽しいなどということはなく、 かといえつまらぬということもなく、 なんとなく時間内に仕事をし、 こんな仕事に志を持てという部長の気が知れない、 ワタシを過小評価する会社に苛立つ日々、 幾年が過ぎたある日、 ひょんなことから打ち込める仕事が運良く見つかって、 さぁさぁ、見てろ見てろ、入社してはじめての高揚、 意義ある深夜帰宅が続き、いよいよだぞっ! 賞賛を手にする前で部署が変わり、 志半ばでその夢はだれかに託され、 託した相手はそれがだれかの夢だったとはみじんも思っておらず、 だったらオレがやり遂げたかったと石を噛むもむなしく、 次なる部署は定時帰宅がモットー、 私鉄に揺られ、自分は果たしてなにをしてきたんだろう、 なにをしていったらいんだろう、 つり革にもたれながら、 まぁ給与が減ったわけでもないし、手当もわずかに増えた、 次男坊のサッカーのコーチも忙しくなってきたから、 ちょうどいいとも言える。 改札を出てバスの列まで走り、新興の宅地に買ったわが家まで、 プリウスまで、にわかガーデニングまで、 妻まで子供まで、同居の母まで23分、木枯らしに襟立て坂道を上っていく。 じっとほほに手を当て聞き、聞き終えると、首をすくめ、ニタッと笑いながら、きっとこう答えるだろう。 「サラリーマン人生が幸せなのか、ボクみたいのが幸せなのか。そういうのはわかんないよ。 けど。 豚屋って言うのはだれかと代わるなんてわけにもいかないし、 失敗したら全部自分の身に降りかかる。 うまくいってたとしても過去の失敗の穴埋めで手一杯。 志を貫いてますね、なんて言われるけど、やろうと思っていたことがまだ途中なだけだよ。 生ハム作りもまだまだ完成途上だしね。 やめるにやめられなかった。 こういう生き方しか、ボクにはできなかっただけ」 サラリーマンをやめ、養豚業を始めたゲンさんにとって、この30年は失敗の連続だった。 それでも。 いまではホエー豚の先駆者として、全国から注文はひっきりなしだし、念願だった生ハムもなんとか製品化にこぎ着けた。 後継者もできたし、端から見ればうらやましいほど順風だと思われている。 「成功?そんなこと全然無いわよー、いつも家族の靴下は穴だらけ。子供たちはどうしてうちはこんなに貧乏なのって言いながら育ったんだから」 と奥さんは困った顔で笑う。 ゲンさんは時々「オレはただただラッキーだった」と言う。 成功したとかいう世間の風評を気にとめているようには見えない。 北海道、大樹町。 大美浪源(ハジメ)さんはこの町で生まれ、子供のころからゲンちゃん、と呼ばれてきた。 だから源ファームは、ゲンファーム。 ゲンさんの祖父母は岩手と山形から大樹町に来て開墾をはじめた。 「小さい頃は大事にされ、甘やかされて随分我儘に育ったよ」 学校に行く前に畑で仕事をし、帰って来てからも祖父母の畑仕事を手伝った。 農家は皆、卵を取るために鶏を飼い、肉を取るために豚を飼い、乳を取るために牛を飼っていた。 日給の鶏。月給の豚。年給の牛。 自分たちで食べるものは全て自分たちで育て、買わなくてはいけないものは豚や牛乳を売って得た金銭で手に入れた。 当時、「開墾の始まりは豚と一つ鍋」という言葉があった。 豚と同じ鍋から食べ物を分かち合う。 開拓時代の入植者にとって、豚は身近で必要なものだった。 正月、各農家が毎年持ち回りで豚を1頭だけ潰し、ごちそうとしたのは北海道では普通のことだ。 「うちは川沿いにあったんだよ。 当時は川に沿って入植したからね。 物の流通も川を利用した。 だからね。 川が氾濫するでしょ。そうすると牛乳を売りに行けなくなるんだよね。 トラックの物流が当たり前の時代からは信じられない話しだよね。 でも、どの家も貧しく、どの家も同じような生活をしていたから、今に比べると、とても暮らしやすかったよ」 昭和30年頃は全盛期だった養豚家、豚屋さんも、今では源ファームを含め、2軒まで減った。