01.jpg服部行夫   大正元年、遠軽生まれ。瀬戸瀬地区に、馬とともに暮らしている。馬の堆肥を使い昔と変わらぬやりかたで営む農家。

服部のとうさん、長谷川のとうさん、そして平間のとうさんに、年末カフエ マメヒコに来てこの惨憺たる作況を伝えてもらうという企画を打診していた。

服部のとうさん「あー、情けない。ほんとにこんな馬鹿雨の年はないな。初めてだぞよ。
東京に呼ばれてもな、みな様に振る舞うものがなにもないぞよ。
いつもの年なら東京に豆担いで行って、腹いっぱいまんじゅうでもこしらえて食わしてやるんだがな。
手ぶらで行くなぞ、あずましくない」

服部のとうさん「これだけ。まぁ一休みしよう」
26.jpg服部のとうさんはお茶が大好きだ。
薪ストーブに鉄瓶が二つも常にくべてあり、
お茶の葉は京都のものときめている。

服部のとうさんはこう言う。

「こんだけ凶作でも、こうして上等なお茶が飲め、白い米も食えるんだから。
こんなぜいたくは昔はできないぞ」
27.jpg長谷川のとうさん「いつの時代がよかったかな、とうさん」
そうたずねると長いこと、んーと唸って、
服部のとうさん「わかんないが、昭和でいえば40年ごろは」
長谷川のとうさん「うん、にぎやかな時代だったね」

ホワイトアスパラガスというのがある。
通常のグリーンのアスパラガスの倍もの値が付く白いアスパラガスは
当時の遠軽を大いに賑わせた。
湧別にホワイトアスパラガスの缶詰工場があり、そこに質のいいアスパラを卸すことができれ
ば大金をつかめた時代があったのだ。
一反20万円は稼げた。

アスパラガスは驚くほど早く伸びる。
一日に10センチも伸びる。
ホワイトアスパラガスは地表に出ずまだ土のうちにいるそれを掘り出すことで、
その甘さと白さを保つ。
少しでも日に当たると色がついて価値がなくなる。
服部のとうさんも昔はそれにしゃかりきになっていた。
地表をいつもきれいにきれいにし、目を凝らし、
じっと土の表面にできる、わずかなひび割れを、明け方に探す。
しかし、3年4年すると眼が疲れてできなくなった。

過ぎ去りし人生は早い。

28.jpg
終戦の年、昭和20年。

遠軽のとうさんたちは、それぞれの夏を迎えていた。
当時20歳の兵隊だった服部行夫さんは、
函館で津軽海峡の見張り番をしているうちに終戦を迎えた。
ついに、兄たちのように前線に出向くことなく、無事、瀬戸瀬駅に降り立った。
けれど。
出迎えた家族、とりわけ母の気持ちは複雑だったろう。
一足先に戦地へ行った兄たちは英霊となり、この瀬戸瀬駅には
行夫さんひとりしか帰ってこなかった。

石北本線、瀬戸瀬駅。
風情があると言えばそうかもしれないが、ひとことで言ってしまえば小さな田舎の駅。哀れなほど寂れてしまっている。
かつてこの駅前の商店街を歩けば、すれ違うひと同士の肩がぶつかった。

それほどにぎわったことが一瞬でもあったという話しを、今のこの町を知る人の誰が信じようか。
この駅の改札を通って多くの人が町に入り、そしてそれより多くの人が改札を通ってこの町を去っていったのだ。

その頃は80戸あった部落もいまでは数えるほどしかない。

29.jpg牧草地となっている5町ほどの山と5町ほどの農地に、妻のツルさんと息子さん家族3人で食べるためのわずかの野菜、それと長谷川のとうさんに頼まれた豆を作っている。

服部のとうさんの家の脇に母屋と同じ大きさの馬小屋がある。
そこには二頭の農耕馬がいる。
かつて、トラクターに替わるまで、馬はどこの農家にもおり、苦楽をともにした家族だった。
機械化奨励、どの農家も機械のために借金を重ねていく中で、服部のとうさんはなぜかそれを拒んだ。

服部のとうさん「おじさんは農業を大きくしたくなかったんだ。そういうのはいずれダメになるとわかってたんだな。今でも馬はちゃんと働いてくれる。

言っちゃ悪いが牛屋さんはみんな億の借金だぞよ。
もう知らねぇ、なるようになれとやってる。
昔の人は偉いこと言った。
転ばぬ先の杖。
転んでしまってからでは、痛いだけじゃ済まされない。
みんな首回らなくなってこの町を去ってったんだ」

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mamehicoヒトヒコヒトヒコ13週:遠軽のとうさん服部行夫   大正元年、遠軽生まれ。瀬戸瀬地区に、馬とともに暮らしている。馬の堆肥を使い昔と変わらぬやりかたで営む農家。 服部のとうさん、長谷川のとうさん、そして平間のとうさんに、年末カフエ マメヒコに来てこの惨憺たる作況を伝えてもらうという企画を打診していた。 服部のとうさん「あー、情けない。ほんとにこんな馬鹿雨の年はないな。初めてだぞよ。東京に呼ばれてもな、みな様に振る舞うものがなにもないぞよ。いつもの年なら東京に豆担いで行って、腹いっぱいまんじゅうでもこしらえて食わしてやるんだがな。手ぶらで行くなぞ、あずましくない」 服部のとうさん「これだけ。まぁ一休みしよう」服部のとうさんはお茶が大好きだ。薪ストーブに鉄瓶が二つも常にくべてあり、お茶の葉は京都のものときめている。 服部のとうさんはこう言う。 「こんだけ凶作でも、こうして上等なお茶が飲め、白い米も食えるんだから。こんなぜいたくは昔はできないぞ」長谷川のとうさん「いつの時代がよかったかな、とうさん」そうたずねると長いこと、んーと唸って、服部のとうさん「わかんないが、昭和でいえば40年ごろは」長谷川のとうさん「うん、にぎやかな時代だったね」 ホワイトアスパラガスというのがある。通常のグリーンのアスパラガスの倍もの値が付く白いアスパラガスは当時の遠軽を大いに賑わせた。湧別にホワイトアスパラガスの缶詰工場があり、そこに質のいいアスパラを卸すことができれば大金をつかめた時代があったのだ。一反20万円は稼げた。 アスパラガスは驚くほど早く伸びる。一日に10センチも伸びる。ホワイトアスパラガスは地表に出ずまだ土のうちにいるそれを掘り出すことで、その甘さと白さを保つ。少しでも日に当たると色がついて価値がなくなる。服部のとうさんも昔はそれにしゃかりきになっていた。地表をいつもきれいにきれいにし、目を凝らし、じっと土の表面にできる、わずかなひび割れを、明け方に探す。しかし、3年4年すると眼が疲れてできなくなった。 過ぎ去りし人生は早い。 終戦の年、昭和20年。 遠軽のとうさんたちは、それぞれの夏を迎えていた。当時20歳の兵隊だった服部行夫さんは、函館で津軽海峡の見張り番をしているうちに終戦を迎えた。ついに、兄たちのように前線に出向くことなく、無事、瀬戸瀬駅に降り立った。けれど。出迎えた家族、とりわけ母の気持ちは複雑だったろう。一足先に戦地へ行った兄たちは英霊となり、この瀬戸瀬駅には行夫さんひとりしか帰ってこなかった。 石北本線、瀬戸瀬駅。風情があると言えばそうかもしれないが、ひとことで言ってしまえば小さな田舎の駅。哀れなほど寂れてしまっている。かつてこの駅前の商店街を歩けば、すれ違うひと同士の肩がぶつかった。 それほどにぎわったことが一瞬でもあったという話しを、今のこの町を知る人の誰が信じようか。この駅の改札を通って多くの人が町に入り、そしてそれより多くの人が改札を通ってこの町を去っていったのだ。 その頃は80戸あった部落もいまでは数えるほどしかない。 牧草地となっている5町ほどの山と5町ほどの農地に、妻のツルさんと息子さん家族3人で食べるためのわずかの野菜、それと長谷川のとうさんに頼まれた豆を作っている。 服部のとうさんの家の脇に母屋と同じ大きさの馬小屋がある。そこには二頭の農耕馬がいる。かつて、トラクターに替わるまで、馬はどこの農家にもおり、苦楽をともにした家族だった。機械化奨励、どの農家も機械のために借金を重ねていく中で、服部のとうさんはなぜかそれを拒んだ。 服部のとうさん「おじさんは農業を大きくしたくなかったんだ。そういうのはいずれダメになるとわかってたんだな。今でも馬はちゃんと働いてくれる。 言っちゃ悪いが牛屋さんはみんな億の借金だぞよ。もう知らねぇ、なるようになれとやってる。昔の人は偉いこと言った。転ばぬ先の杖。転んでしまってからでは、痛いだけじゃ済まされない。みんな首回らなくなってこの町を去ってったんだ」