2008/06/03

珈琲焙煎師 菊地良三 第二話


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菊地良三(よしみ)-珈琲焙煎師。札幌 菊地珈琲代表。67歳。
1941年(昭和16年)北海道・音更出身。
ジャガイモや豆を作る畑作農家に生まれる。8人兄弟。
札幌の大学を卒業後、大手珈琲商社に就職し、45歳で独立。自家焙煎珈琲
の店「菊地珈琲 キクチ珈琲」を開業した。
http://www.kikuchicoffee.co.jp
長年の経験による独自の珈琲は、主に札幌市内の喫茶店に届けられている。
2005年以降、都内では唯一、カフエ マメヒコに珈琲豆を卸している。

北海道、札幌。

美味しい水。美味しい空気。そしてドライな気候がこの町の珈琲を美味しくしている。そのせいか町中では多くの自家焙煎を売りにした喫茶店の看板を見る。そのどれもが札幌らしい独特のたたずまいを残していた。
しかし7年前に札幌にもスターバックスが開店し、札幌の喫茶文化は変わってゆく。長く愛された喫茶店の灯りが、手軽さにひとつ、またひとつ消されてゆく。

菊地良三(67)が大手珈琲商社から独立し、小さな焙煎機とわずかな試飲スペースの「菊地珈琲」を始めたのは、いまから22年前のことである。

商社時代に培った焙煎師としての技には自信があった。
なにより誠実に豆を焼けば、絶対にお客さんは喜んでくれることを営業マンとしての経験から知っていた。

菊地「珈琲が美味しい飲み物だって知ってもらいたくて、ほんと脇目もふらずに働いたね」

 
 
 
 
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菊地は十勝の音更(おとふけ)町の出身である。実家は馬鈴薯や豆などの畑作農家だった。
札幌の大学を出て、右も左もわからない珈琲の世界に入った。

菊地「体は小さいけど、農家の出だから丈夫だろうって採用してもらったんだ。きつかったよ。だけど体なんかそうそう壊せないわけ。配達がまだリヤカーのころでね。ジュース瓶の木箱を持ってすすきののビルを何度も何度も上ったり下りたりね。するとね、クク。お尻の割れ目からズボンって裂けてくるの。知ってた?重いもの持つとズボンてお尻が裂ける。縫っても縫ってもお尻が裂けるのよ。いまお尻が裂けてる配達の人なんかいないでしょ」

あの頃のきつさを思えば、今の苦労なんて苦労のうちに入らないと思う。

 
仕事はきつかったが楽しかった。

良い珈琲豆を焼くことに夢中になっていた。

しかし、思いがけないことが起こる。

菊地が勤めていた商社が支店で豆を焼くのをやめてしまったのだ。本部一括で焼いた豆を全国の支店に配送するようになったのだ。

香りの悪い古い珈琲豆を売らなくてはならない。

あらゆる産業に効率が求められた。

高度経済成長は苦を楽へと変えてくれた。

配達は自動車に代わっていった。もうズボンも破けない。 

しかし楽しかった不便までもが、切ない便利に変わってゆく。

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菊地「なにより悲しかったね。

営業マンだからまずいとわかってても美味しいと偽って売らなきゃなんない。でもね。

そんなことできないでしょ。だって長年お客さんに珈琲は美味しいもんですって説いて、珈琲のおいしさに開眼してもらったのはほかでもないわたしたち営業マンだもの。

お客さんはわたしたちを信じて買ってくれてたわけでさ。
会社の都合で泡一つたたない古い豆を、以前と変わらずに美味しいですなんて。そんな芝居、わたしは役者じゃないからできなかったよ」

見限った仲間は次々と辞め独立していった。

頼りにしていた部下も辞めた。菊地は支店長になっていた。
引き留める側に立ちながらも、お客さんを裏切っているのではないかという切なさはぬぐえない。

会社への恩義。

お客さんへの思い。

そのはざまで立ち止っていた菊地は仲間より出遅れて独立した。

自家焙煎珈琲の店「菊地珈琲」。

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自分の名前を冠にしたのはお客さん思いの珈琲を自分の名にかけて出すという菊地の決意だ。
 
菊地良三、45歳の再出発。

博樹「毎日朝早くから店を開けて、汗も拭わず珈琲を焼いて、それから遅くまで配達して歩いてました。
あの頃の父は晩ご飯を家で食べたことなんてなかったと思う」
当時、高校生だった息子、博樹はそう振り返る。

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