映画の編集がこの週末のMA(音入れ)で終わる。

企画から一年近く、ついに完成する。

たかが72分38秒のものに、随分と気の遠くなるようなエネルギーを注いできた。

狂気の沙汰、お好きなんですねぇ、よくやりますなぁ、

と冷ややかな声がすでに聞こえてくる。

言われたわけではない。ただの幻聴。

マメヒコの映画を作るために注いだ莫大なエネルギー。

それはお店を一軒作るエネルギーや、投資した資金にくらべれば鼻くそだ。

店を作る。さらにできあがったお店を継続するためにつぎ込まれる店員の子たちのエネルギー、

さらにその店員の子たちへエネルギーを補充し続けるボクのエネルギー。

それに比べれば、

映画一本にかけたエネルギーなどほんとに目くそ鼻くそみたいなものなのだ。

今回、映画を作ってみて(正直に言えば、映画ではないと思ってるけど)、

デジタルパッケージとはこういうことか、とへんに納得した。

マメヒコ。

はデジタルパッケージではない。

恐らく、演劇というジャンルもデジタルパッケージとはずいぶんかけ離れたところに居るはずだ。

そういう意味でカフェと演劇はかなり近い(デジタルから遠いという点においてだけど)

から親近感がある。

こういうもの(デジタルから縁遠いもの)に、微に入った細に入った

完成度を求めていくことはナンセンスだ。

生身の人間にはおのずと限界があるからだ。

限界はネガティブなものではない。

限界は余白を生みだすし、その余白は受け手の想像力をもって補われる。

そうしないと完成とはならない。

その結果として、送り手と作り手のあいだに一体感が生まれる。

その余白こそお楽しみなのだ。 

初日と千秋楽で芝居が全く変わっていた。

役者たちにどんな心境の変化があったのだろうかと想像すること、

それは演劇のお楽しみの1つだ。

今日はマメヒコの珈琲の味が微妙に違う。淹れてる人が違うのかな?

いつもの子だ。上達したなあ。というのも、お楽しみの1つではないか。

そういう余白は楽しむものなんであって、非難すべきことではない。

というのがボクの考えだ。

ところが。

デジタルは、あらゆる問題をズーム(拡大)しリペア(補修)していく。

映画をデジタルで編集すればすぐに分かるけれど、

映像は1/24秒、音なら際限なく細かな時間の単位までズーム、リペアできる。

とちった台詞をどこか違う場所でとった正しいものに差し替えることは当然だし、

要らない看板を消す、要らない音を消す、あらゆるものはズーム、リペアできる。

 からされるべきこととしてリストアップされる。

たぶん。

コンビニのおでんは最先端のデジタルパッケージなんだ。

グローバルチェーンの珈琲は最先端のデジタルパッケージなんだ。

あらゆる雑味や不揃いはすべてズーム、リペアされ、

そうしてできたデジタルパッケージだけがコンビニの店頭に

何食わぬ顔と、何食わぬ値段で並んでいる。

昨日久しぶりにマメヒコに行ってみた。

編集を終えてすっかりデジタル化したボクの耳と目には、

マメヒコのありとあらゆるものがズーム、リペアされるべきものとして映った。

どんくさい店員の動き、不機嫌な味けのない顔、ガチャンガチャンとうるさいキッチンの音、

薄ぺらなアイス珈琲の味、辛すぎる豆カレー。

すべて修正すべき、されるべきものでマメヒコは溢れている。

30分と居られず、すぐに出てきた。

いまの日本で生きていくということは、

デジタルパッケージされた大量のものを購入するということであり、

そのために働き、さらにそれを消費して生きていくということであり、

そして、ほかの選択肢など、あるようでいてどこにも無いということである。

そんななかでマメヒコなんて要るのかな?要らないんじゃないのと少しいじけた。

かりに要るよといってくれるヒトがいるとしたらそれは、

マメヒコはデジタルパッケージできないようなものをやってよという、意味なのかな?

それとも、マメヒコももっとデジタルパッケージしなさいよという意味なのかな?

きっと。どっちもして欲しいというに決まってる。

映画はもうじき公開するけど、

ズームしたけどリペアできなかった箇所が気になり続けている。

mamehico井川「~について」映画の編集がこの週末のMA(音入れ)で終わる。 企画から一年近く、ついに完成する。 たかが72分38秒のものに、随分と気の遠くなるようなエネルギーを注いできた。 狂気の沙汰、お好きなんですねぇ、よくやりますなぁ、 と冷ややかな声がすでに聞こえてくる。 言われたわけではない。ただの幻聴。 マメヒコの映画を作るために注いだ莫大なエネルギー。 それはお店を一軒作るエネルギーや、投資した資金にくらべれば鼻くそだ。 店を作る。さらにできあがったお店を継続するためにつぎ込まれる店員の子たちのエネルギー、 さらにその店員の子たちへエネルギーを補充し続けるボクのエネルギー。 それに比べれば、 映画一本にかけたエネルギーなどほんとに目くそ鼻くそみたいなものなのだ。 今回、映画を作ってみて(正直に言えば、映画ではないと思ってるけど)、 デジタルパッケージとはこういうことか、とへんに納得した。 マメヒコ。 はデジタルパッケージではない。 恐らく、演劇というジャンルもデジタルパッケージとはずいぶんかけ離れたところに居るはずだ。 そういう意味でカフェと演劇はかなり近い(デジタルから遠いという点においてだけど) から親近感がある。 こういうもの(デジタルから縁遠いもの)に、微に入った細に入った 完成度を求めていくことはナンセンスだ。 生身の人間にはおのずと限界があるからだ。 限界はネガティブなものではない。 限界は余白を生みだすし、その余白は受け手の想像力をもって補われる。 そうしないと完成とはならない。 その結果として、送り手と作り手のあいだに一体感が生まれる。 その余白こそお楽しみなのだ。  初日と千秋楽で芝居が全く変わっていた。 役者たちにどんな心境の変化があったのだろうかと想像すること、 それは演劇のお楽しみの1つだ。 今日はマメヒコの珈琲の味が微妙に違う。淹れてる人が違うのかな? いつもの子だ。上達したなあ。というのも、お楽しみの1つではないか。 そういう余白は楽しむものなんであって、非難すべきことではない。 というのがボクの考えだ。 ところが。 デジタルは、あらゆる問題をズーム(拡大)しリペア(補修)していく。 映画をデジタルで編集すればすぐに分かるけれど、 映像は1/24秒、音なら際限なく細かな時間の単位までズーム、リペアできる。 とちった台詞をどこか違う場所でとった正しいものに差し替えることは当然だし、 要らない看板を消す、要らない音を消す、あらゆるものはズーム、リペアできる。  からされるべきこととしてリストアップされる。 たぶん。 コンビニのおでんは最先端のデジタルパッケージなんだ。 グローバルチェーンの珈琲は最先端のデジタルパッケージなんだ。 あらゆる雑味や不揃いはすべてズーム、リペアされ、 そうしてできたデジタルパッケージだけがコンビニの店頭に 何食わぬ顔と、何食わぬ値段で並んでいる。 昨日久しぶりにマメヒコに行ってみた。 編集を終えてすっかりデジタル化したボクの耳と目には、 マメヒコのありとあらゆるものがズーム、リペアされるべきものとして映った。 どんくさい店員の動き、不機嫌な味けのない顔、ガチャンガチャンとうるさいキッチンの音、 薄ぺらなアイス珈琲の味、辛すぎる豆カレー。 すべて修正すべき、されるべきものでマメヒコは溢れている。 30分と居られず、すぐに出てきた。 いまの日本で生きていくということは、 デジタルパッケージされた大量のものを購入するということであり、 そのために働き、さらにそれを消費して生きていくということであり、 そして、ほかの選択肢など、あるようでいてどこにも無いということである。 そんななかでマメヒコなんて要るのかな?要らないんじゃないのと少しいじけた。 かりに要るよといってくれるヒトがいるとしたらそれは、 マメヒコはデジタルパッケージできないようなものをやってよという、意味なのかな? それとも、マメヒコももっとデジタルパッケージしなさいよという意味なのかな? きっと。どっちもして欲しいというに決まってる。 映画はもうじき公開するけど、 ズームしたけどリペアできなかった箇所が気になり続けている。